【雑記ノート】(おまけコーナーを作成中!)

2011年12月5日月曜日

詩集『大地に芽生えた記憶』著:葵夏葉

【冷たい足】

 ツライとき

 ぼくは別のどこかを向いて

 足を組む

 すると

 安静と冷静さを取り戻す

 だけど

 気付くと足は冷たくて

 血液が流れなくなった足は

 もう、歩けなかった


【旅立ち】

 鉄道のレールに

 寄り添うように佇むタンポポ

 根は強く

 葉は優しい

 旅立ちの準備が整う頃

 行ってきなさいと

 花は言う

 そうして揺られて風に乗り

 煙の中遠ざかると

 ぼやける葉はわずかに光って

 横に揺れていた


【雪】

 綺麗だよね

 雪

 舞い降りる雪はふわふわ

 舞い降りた雪はべたべた

 踏まれず

 踏まれて

 綺麗に

 不潔に

 憧れて手をかざす

 手で包み込むと溶ける

 綺麗だよね

 雪


【頑張ること】

 努力することは偉いこと

 頑張ることは素晴らしいこと

 でも

 つらい汗と涙を流して

 嫌々やるのは偉いことかな

 頑張れと言われて頑張るのは

 本当に素晴らしいことなのかな

 僕は

 褒められる自分が好きです

 褒められない自分が嫌いです

 いつまで頑張ればいいのかな

 僕はいつでも僕に嘘をつく


【風】

 昨日の風

 感情ぶつけて喧嘩したね

 今日の風

 悲しくなって泣いたよ

 明日の風

 また一緒に手を繋ごう

 ああ、感じるのは

 いつでもそこにあるから

 ああ、忘れるのは

 いつでもそこにあるから

 あなたの風はどこから吹いてますか

 見えるけれど見えないもの

 見えないけれど見えるもの

 僕の風はいつでも隣にいる

 私の風はいつでも隣にいる


【夢】

 が降る

 もし、夢は叶わないから夢なんだ

 そう言う人がいるのなら

 雨が止む

 それは夢が終わらないこと

 尽きないことを証明している

 虹が浮かぶ

 夢はどこまでも消えないから

 どこまでも尽きないから夢なんだ

 水たまりを蹴る

 夢を諦める人は悪くない

 けれど

 夢を探さない人は格好悪い


【今と過去】

 今の自分がいるのは

 過去の自分がいたから

 今の自分が笑えるのは

 過去の自分が泣いていたから

 今の自分が他の人と違うのは

 過去の自分が一生懸命になったから

 今はつらいかもしれない

 けれど、不確かな未来に

 分からないけれど、創造したい未来に

 あなたの大切なあなたへ

 さあ、もう少し頑張ってみよう


【海】

 幾年もの間

 波は足跡をならした

 時には大きい足跡を

 時には小さい足跡を

 もしかして、この足跡は

 何十年も、何百年も、何千年も

 何万年も何億年だって昔の足跡かもしれない

 今の僕の様に涙を浮かべながら水平線に落ちて行く

 あの夕日を眺めていたのかもしれない

 何故そんなに肩を張っていたのだろう

 焦らなくてもいいじゃないか

 我慢しなくていいじゃないか

 ゆらゆらと棚引く夕日の欠片は

 もう随分昔から輝いているのだから


【いのちの名前(千と千尋の神隠しに寄せて)】

 お母さんが言っていた。

 今日は昨日の続きだと。

 昨日の私は今日の私を、

 運んでくれる。

 昨日の私が望んだ思いは、

 どんなモノだったのか。

 お父さんが言っていた。

 日々の糧や人生の喜びを

 感じることが出来るのは、

 神様のおかげだと。

 でも、

 私にはわからない。

 会ったこともないし、

 話したこともない。

 でも、信じることで

 人は大きく変わるのだと、

 愛したあの人は言っていた。

 もし、私があなたの存在を、

 無限だと、永遠だと、

 そう、言えたのなら、

 私は信じてみよう。

 でも、どうしても

 あなたが消えて、

 声さえも聴くことが出来ないことを、

 近くにいればいるほど、

 想ってしまう。

 泣きたくなるほどに。

 あなたを愛すれば愛するほど。

 …………

 自分が弱い。

 昔愛した人はもういない。

 約束したのに。

 だから、どうしても

 あなたと一緒にいられない。

 でも、そんな私をあなたは、

 ずっと横で見守っていてくれる。

 私の大切なモノを

 一つ一つ覚えていって、

 そこに

 私をいつまでもとどめてくれる。

 時にそれが私を安心させ、

 時にそれが私を臆病にさせる。

 あなたがいないとつらいのに、

 あなたがいるとこわい。

 いつあなたを失ってしまうのか、

 いつあなたの声が消えてしまうのか。

 記憶の淵を探るように、

 思い出をすくい上げるように、

 私の心にいつでも触れてくる

 柔らかな痛みのような、

 喜びと悲しみが混ざった

 困惑のソナタ。

 …………

 間違いを犯したあの日。

 つらく悲しんだあの日。

 全ては時の流れに過ぎ去っていく。

 けれど、

 それは確かな温もりとして

 いつまでも私の胸の中にある。

 時に喜びとなって。

 時に悲しみとなって。

 いつまでも私を作っていく。

 きっと

 彼らは捨てられるモノではないから。

 きっと

 彼らは忘れられるモノではないから。

 大切に見守っていて欲しい。

 大切に私も包み込むから。

 だから、いつまでも

 私が一歩踏み出せる、

 魔法の歌となっていて。

 ……………

 傷つきやすいのは、

 あなたの心が綺麗だから。

 立ち止まるのは、

 あなたの心が純粋だから。

 もし、いつの日か、

 あなたとわたしが、

 離れるのなら、

 それまでそばにいよう。

 そばにいて、あなたを守り抜く。

 けれど、

 愛したあなたをわたしは、

 いつまでも永遠だと信じている。

 頼りないのなら、

 もっと強くなろう。

 寂しいのなら、

 もっと抱きしめよう。

 あなたがわたしを、

 愛することも、

 永遠なのだから。

 …………

 あなたの言葉で、

 私はもう少しだけ、

 世の中の全てを、

 信じたくなりました。

 ありがとう。

 そして、いつまでも

 あなたのとなりにいたい。

 ありがとう。

『末期癌』著:葵夏葉


   末期癌
             葵夏葉

 俺は商店街を自転車で漕いでいた。
 そこは人々の喧騒とは無縁の、活発な蝉時雨以外にはなにも聴こえない場所で、昔から俺には庭のような所だった。
 今日は久しぶりに出掛けることになったので、外用の服を着ていた。
 通りは人の姿が(まば)らで寂しい感じもしたが、いまの俺にとっては、それでよかったのかもしれない。
 人の目を気にしながら、毎年、訪れている宝石屋と洋服屋に行った。宝石屋では、
「ご結婚ですか?」とにこやかに訊かれたので、「いえ、結婚記念日です」と答えた。そうすると、カウンターの女性は白銀色のイヤリングを提案してくれた。だいぶ値段は高かったが、想像してみると()()()にぴったりだった。
 俺は直ぐ様それを買うことに決めた。
 洋服屋では、俺がカウンターにカゴを置くと、店員が不審な顔をしたので、
「ああ、これ、妻へのプレゼントです」と遠慮深く笑うことにした。そうすると、店員の()しげな顔は緩んだように見えた。
 俺はそれらを大切に持って、自転車で自宅まで帰った。
 玄関を開けて「ただいま」と言うと、
「おかえり」と、見えない姿の代わりに優しい声が聴こえてくる。その直後、ベッドの(きし)む音が聴こえた。きっと、起き上がろうとしたのだろう。
「いーよ、いーよ。寝てろ。まだ本調子じゃないんだから」
 ほんの少しだけ声を張り上げて、それでも柔らかな口調で言おうと気を配る。同時に、玄関で靴を脱ぎ捨てると、鈍い音が狭い部屋に響いた。そのボロボロの靴は、ここのアパートと同じ色をしていた。
「そう……?」
「それより、千恵子、プレゼントがあるんだ」
 俺は袋の中身から服を取り出した。
「え、なに? ……それってワンピース?」
 千恵子は一瞬なにが起きたのかわからなかったようだが、喜んでいるような驚きと直後の柔らかな声が俺を安心させる。買ったのは間違っていなかった。
「ああ、いろんなのを買ってきた。レース使用のとか、タンガリー風の物とか」
 それでも、恥ずかしい気持ちからか、視線を下からゆっくりと上げながら続けた。
「……嫌だったかな」
「ううん……。うれしい。でも恥ずかしくなかった?」
「ちょっとね。でも別に君のために買うんだから平気だったよ」
「そっか……ありがと。早速着るね」
「自分で着られるか?」
「うん、今日は、大丈夫だと思う」
「じゃあ、俺、シャワー浴びてるからさ、その間に着替えてて」
「うん、わかった」
 お風呂場の扉を開けるとき、俺は心配して振り向いた。最近、千恵子は食欲も少なく、体力も落ちた。自分で服も着られないときさえある。出会った頃の彼女は、町内をマラソンするのが日課で、俺も何度か付き合ったが、朝早く起きるのは苦手で、途中、自分だけサボってしまった。一緒に走れなくて残念だったが、それでも元気に「行ってきます!」と玄関を出る千恵子を見られるのは幸せだった。
 だからこそ、最近の彼女を見ていると心配してしまう。けれど、今日の千恵子なら大丈夫だろう。何度も体調を崩すのは、多分、前の後遺症なのだから。
 俺は汗まみれの身体を、いつもより温度を下げた冷たい水で洗う。それは刺激的だったが、涼しくなるどころか、むしろ、凍えるほど身体中が寒くなってしまった。
 俺は改めて顔を洗ったあと、洗面所に用意していた着替えを着る。
 そうして、部屋に戻ると、輪郭のぼやけた彼女が、かわいい笑顔でそこに立っている。しかし、そのままじっと見ていると、輪郭はしっかりとしてきた。
「ね、かわいい?」
 そこにはベージュのワンピースを着た千恵子が立っていた。両手を後ろで組んで、わずかに首を傾ける。少し細くなった身体が、出会ったばかりの彼女を思い出させるが、どこか無理をしているようにも見える。
 それでも、千恵子が笑ったときに見せる白い歯は、並びもよくて光沢があり、本当に綺麗だと思う。真ん中で揃えられた長髪は優雅で、一重の優しい瞳を見ていると、こちらも照れてしまう。
「すっごく」
 やや驚いたふうに俺は答えた。すると、千恵子は少し俯いたあと、にっこりと笑った。そして、ベッドへとゆっくり歩き、座る。そのあいだ、俺の視点は彼女を探すようにして移っていく。
 千恵子が歩く度に、床の色は古びて、掃除などしていないかのようにほこりが溜まる。次第に、それは部屋全体にも及び、空気が変わった。
 戸棚の上には、二人の記念写真が置いてある。けれども、それは変わっていく部屋の雰囲気と共に増えていき、何十個にも達したけれど、それぞれは短い期間の中で撮ったものだ。――確か、千恵子が急にいろいろなところに行きたいと言い出したことを思い出す。
 不思議だったが、それは楽しかった。
「……うれしいな。ありがと、買ってきてくれて。それに今日が二人にとって大切な日だってこと、覚えててくれたんだもの。それもうれしい……」
 ベッドに寝ている千恵子の耳には、銀白色のイヤリングがわずかに陰を作って光っていた。彼女は大切に袋の中身を広げて、それらをしっかりとつかむ。それから周りを見渡した。ベッドの周りには、水々しいたくさんの花々があった。特に千恵子を包んでいたのは、桃色の薔薇である。
「そりゃあ、俺とお前の結婚記念日を忘れるわけないだろ? もう何年もずっと続けてるんだから」
「……うん。ありがと。なんかうれしいね。頭ではわかっていても、すっごくうれしい」
「よかった。君がいっとき、体調を崩して倒れたあと、どうなるかと思ったよ。医者はなんでもないって言ったんだよな? よくなるんだよな?」
「うん、そう。……ごめんね。もう大丈夫だから。もうずっとあなたと一緒。これからもずっと」
 嬉しかったのだろうか。千恵子は泣いていた。息がつまってしまうほどに長く。
「そうだな」
 俺はそう呟きながら、視線のやり所に困って、横を向いて照れていた。すると、視線の向こうに彼女の等身大ほどの、大きな鏡を見つけた。そう言えば、彼女はいつもあの鏡の前に立っていた。
 誘われるようにして、俺は自然とそこへと足を運ぶ。千恵子がいつも立っていた場所。そこが一番彼女を感じられると思えた。
 俺は千恵子を探すようにして鏡をのぞき込む。
 すると、そこには、ベージュのワンピースを着て、銀白色のイヤリングを付けた人間が立っていた。ワンピースは新品で、イヤリングは鋭く光っている。
 俺はその場にしゃがみ込み、思わず震える身体をよそに、千恵子の名前を連呼しながら空白の身体を包み込んだ。
 鏡には泣いている俺の姿だけが、はっきりと見えていた。

2011年11月13日日曜日

『赤と白』 著者:葵夏葉


   赤と白
           葵夏葉


 天気予報は、来週まで晴れが続くと言っていた。わたしはそんなこと信じたくなかった。晴れは好きだけれど、決めつけようとするところが嫌いだった。わからないことはわからなくていいと思ってしまう。近い将来のことなんて、どうでもよく思えた。きっと、それはわたしが前を向きたくないからだと思う。

 カーテンの外から聴こえてくる蝉時雨で、わたしは目を覚ました。蝉は決まった時間に一斉に鳴くのだと、去年の自由研究で同級生の男の子が発表していた。そのことにわたしは驚いたけれど、いまとなってはどうでもいいことだった。
 頭が叩かれたようにずきずきと痛み、まぶたが垂れて重い。
 先週から夏休みに入ったから、よく寝る方だったわたしから考えれば、とっくに八時を過ぎていてもおかしくないのに、今日は五時に目が覚めた。
 起き上がろうと布団を払い、ベッドから足を下ろすと、ふらついた。思った以上に自分の身体が軽い。それはどこか体の中が空っぽになったような感じだった。
 わたしは、乱れた髪の毛のまま、寝巻き姿で部屋の扉を開け、階段を降りて洗面所に向かった。それは習慣となっていて、考えずに動いていた。
 階段を降りたと同時に、なにか音が聴こえた。その音を確かめようとしたけれど、足はそのままお風呂場へと向かう。実際、音はその中から聴こえていた。お風呂場なので、ばちゃばちゃと水を弾く音がする。
 洗面所はお風呂場の前にあって、そのお風呂場には中からカギをかけられるようにもなっている。だから、顔を洗っている最中に後ろで音がするのはよくあることだし、勝手に中には入れない。でも別に入る必要もないから、わたしは中にいるときでしかカギのことを考えない。
 けれど、今日はなぜかそのお風呂場の扉が半開きになっていた。そしてその中から音がしている。
 わたしは家族の誰かがカギをし忘れて、シャワーを浴びたり、お風呂に入っているのだと思った。
「お父さん? お母さん? ()()?」
 続け様に名前を呼んでみたけれど、返事がない。聴こえていないのかと思って、わたしは扉を開けた。
 けれど、そこには家族がひとりもいなかった。それなのに、まだ水の音がする。でも、シャワーからは水が出ていないし、蛇口からも水は流れていない。だから、浴槽の中を見てみた。そうしたら、浴槽の中になにかがいた。
 それは大きなものもいたし、小さなものもいた。喩えるのなら、それは魚だった。それなら魚と言ってしまえばいいのだけれど、それは魚みたいでも魚ではなかった。
 うごめくその数百匹は浴槽を半分ほど満たして、少ない水を奪い合うようにひしめき合っている。
 いつからそこにいるのかもわからないし、誰が連れて来たのかもわらなかった。しばらくのあいだ、わたしは呆然としていた。体も動かせずに、頭の中でどうしたらよいのかを考えていた。
 わたしは何個も疑問を感じたけれど、その魚のようなものが残り少ない水を奪い合う姿を止めたかったし、苦しそうにエラを動かしているのを見ると、とにかく彼らに水をあげたかった。途中で淡水魚なのかを考えたりもしたけれど、そのまま流すことにした。
 実際に水道の蛇口をひねると、そこからドロドロと赤い液体が流れてきた。わたしはびっくりして、すぐに蛇口を閉めた。その液体はぬるっとしていて、触ってみると時間の経った血のようだった。
 わたしが驚いている間に、魚たちは赤い液体を浴びて跳ね返り、お互いの身体を叩き始めた。その瞬間、突然、大きな魚が弾けたと思ったら、その衝撃で他の魚たちも弾けていった。でも、中身は空っぽで、見た目が本物みたいだったのが嘘のようだった。
 それは喩えるのなら風船だった。青と黒が混ざった、飛ぶことのできない風船。
 わたしの頬には、魚の目玉が飛び散る代わりに、ドロッとした液体がくっ付いた。ひんやりと冷たいその液体は、わたしを恐怖させるのに十分だったけれど、かすかに鼻の先をなでる甘い香りと、どこか懐かしい色がわたしに興味を持たせた。多分それは、絵本の中に出てくる未開の地を探る探検家のように、危険だと知りながらもどこかそれに惹かれるのと、ちょっと似ている気がする。
 わたしは意を決して、頬の液体をなめてみた。すると、甘い味が口の中いっぱいに広がった。それは、祭りで水飴をなめたときと同じ味だった。
「甘い……」
 わけのわからない気味悪さに驚いて、いまにもおかしくなりそうだった頭が、一気にファンタジーの世界に染まり出した。
「甘い!」
 わたしは大急ぎで梨央に教えてあげようと、お風呂場をすぐに出て、梨央の部屋、つまり母の部屋へと向かった。そのとき、廊下に置いてある受話器が鳴った。わたしはとっさにそれに出たけれど、内容はあまり覚えていない。むしろ、受話器を置いた瞬間に忘れてしまった。ただ、病院からだということだけは覚えている。けれど、出なければよかったと、後悔した気持ちが残った。
 それでも、またどこからか奇妙な興奮があふれてきて、もっと梨央に話したい気持ちが大きくなった。
 わたしは、部屋の扉に手をかける前から梨央の名前を呼んでいた。開けたあとも、何度もその名前を呼んだ。そう広くない部屋にわたしの声だけが響いていた。梨央が遊んでいた、赤い積み木のブロックを踏みそうになってよろける。手をついた先には台所の扉があった。それはちょうど倒れる勢いで開いた。
「どうしたの、朝からそんな頓狂な声を出して」
「梨央は」
「さあ、近所の子と遊びに行ったんじゃない?」
 母はそれ以上にその話題に乗り気ではなかった。今日はなにを食べるかとか、夕ご飯はなにがいいだとかを訊いてきた。わたしはそれを答える前に先ほど見た状況を語ることにした。けれど、母は信じようとせず、ただ笑っていた。
()()ったら、小学校五年生にもなってなに言ってるのよ」
 わたしがいくら反論しても母は取り合ってくれなかった。それどころか、パプリカを切っていた手を休め、わたしにジョンの散歩をしなさいと言う。ジョンとは、先週から飼うことになったウェルシュコーギーのこと。
「亜衣が飼いたいって言うから買ってあげたのよ。しっかり面倒みてあげなさい」
 なぜか、いままで持っていた心の中の不思議さが現実一色に染まってしまった。わたしは母の言動に多少ながらがっかりし、吐息をもらすように「はぁい」と呟いた。
 わたしはしょんぼりとお風呂場へと歩いた。すると、浴槽には先ほどのひしめき合っていた魚たちも、飛び散った魚の欠片すら綺麗になくなっていた。ただ、そこには透明な水が浴槽を半分ほど満たしているだけで、蛇口を回してみても、いつもと変わらない水道水が流れた。実際に触ってみても、先ほどのような手触りはなく、ただ虚しいほどに冷たかった。
 わたしは錯覚を見たのかと思い、目を疑った。けれど、その直後に口に手を当てて、味覚も疑わなくてはいけなかった。あれは確かに甘かった。とろけるように甘い水飴だった。
 そのあと、わたしは洗面台で顔を洗い、乱れた髪を整えた。それほど長い髪ではないので、そう長くはかからなかった。けれど、そのとき見た自分の顔は酷く疲れきっていて、いまにも倒れそうだった。
 歯ブラシを口の中に入れると、歯茎(はぐき)から血が流れた。急いでわたしは水でそれを洗い流し、その場をあとにした。
 台所に戻る途中、また電話が鳴った。わたしはゆっくりと受話器を握り、ゆっくりと耳元に寄せた。たった数秒だった。吐き捨てるように深い息を吐いたあと、受話器を置いた。
 台所に戻ると、母はいなかった。代わりに父が椅子に座っていた。
「ねぇ、お父さん。お母さんは?」
「さぁ、わからん。散歩にでも行ったんだろ」
 父は赤のゴルフ雑誌を読みながら冷静に呟いた。
 わたしは母がいなくなって寂しくなった流しへと向かう。すると、流しには大量の真っ赤なパプリカが散らばっていた。わたしは気味が悪かったので、触らずにそれをそのまま放置することにした。
 テーブルの中央には三つの蜜柑が置かれてある。わたしの目からはどれも腐っているとしか見えなかったけれど、父が食べている間だけは、新鮮な色を見せていた。
 父は食べながら、
「明日、遊園地に行くからな。寝坊したら置いて行くぞ」と言った。
 父は、有言実行をする人だった。けれど、わたしが本当に寝坊しても置いて行くことはしない。そんな家族には優しい父だ。どちらかと言うと、機転を利かして、わたしを置いて近くまでドライブをして来て、目覚めたわたしをちょっとだけ不安にさせてから帰ってくる。そして抱きつきたくなるような柔らかな笑顔で、
「さあ、行くぞ」とか言うに決まっている。
 わたしは父の言葉を聴きつつ、いったん自分の部屋へと戻ろうと、階段をあがった。古びた材木が(きし)む度に、父の言葉が脳裏をかすめる。
 重力に負けそうになる身体をなんとか押し戻し、何度も壁に触れる肩を、強く握り締めた。何日も変えていない靴下が滑りながらも、どうにかわたしは部屋へとたどり着いた。
 そして、殺伐とした部屋に幻滅して、そのまま背中から倒れるようにしてベッドに仰向けになった。お腹は減っていたけれど、食べる気分ではなかった。簡素な天井がまぶたをゆっくりと落とさせた。

〆 〆 〆

 目が覚めたときには、右の窓から茜色の光が差し込んでいて、部屋の中に光と影を作っていた。
 天女の衣のようなカーテンは、多少も揺れることなく、わたしを哀れむように見つめてたたずんでいると、そのときわたしは思った。そして枕を投げてやろうと思ったけれど、全身に力が入らず、そのまま何十分も呆然としていた。
 机には終わっていない夏休みの宿題があったけれど、気にせず階段を降りた。どうせ、やっても虚しいだけだと知っていたから。
 一階は真っ暗だった。わたしが電気を点けると、今朝となにも変わらない景色が目に映った。そのとき、またあの電話が鳴った。わたしはそれを無視することにした。ずいぶん、長く鳴っていたようだけれど、ついにいつともなく聴こえなくなった。
 誰もいないのか、わたしが点けたところ以外は真っ暗で、居間に置いてあるソファーも寂しそうにその場にあった。
 台所に行って電気を点けてみると、まだ流しには赤いパプリカが散乱しているし、テーブルには赤いゴルフ雑誌が倒れている。
 となりにある母の部屋へと扉を開け、電気を点ける。そこには今朝、わたしが踏みつけそうになった赤い積み木がばらばらに崩れていた。
 わたしはこの家が空っぽになったと思った。ただ、静けさだけがわたしを包んでいた。むしろ、その静かすぎる音で耳鳴りがしてくる。先ほどまで忘れていた頭痛がどんどんと激しくなって、それに連れて胸の鼓動も大きくなっていく。
 わたしはその場でうずくまってしまった。

〆 〆 〆

 ずいぶんと長く呆然としていたせいか、いまが何時なのかわからなかった。そんなとき、暗い玄関の方からなにか聴こえたような気がした。
〝ピンポーン〟というような音。
 わたしは、はいずり回るようにして廊下へと出た。玄関の暗闇が不気味に揺れている。もしかすると、あの扉の向こうには悪魔がいるのではないかと思った。悪魔がわたしをさらいに来たのだ。
 そう思うと、わたしは近くに置いてあったステンレスの棒を自然とつかんでいた。
「すみませ~~ん」
 人間の声がする。しかも、男性の声。けれど、まだわたしには悪魔が人間のフリをしているとしか思えなかった。
 玄関のカギを開け、わたしは真っ先に飛びかかった。ステンレスの棒が空中で音を鳴らす。
 突然のことに悪魔は驚き、すぐに身を交わしたあと、「なにをするんだ!」と叫んだ。
「このアクマめ。今度はわたしをさらいに来たな」
 わたしがそう言うと、郵便局の格好をした悪魔はわたしを軽蔑するかのように、にらめつけて、乗ってきたバイクで去っていった。
 わたしは嬉しくなった。悪魔は逃げたのだ。わたしが追い払った。わたしが、わたしが、わたしが……。
 なぜだろう。嬉しいはずなのに、泣いてしまった。その場で屈み込んで、かれた声が胸を突き刺す。わたしはふと横を向いた。そこにはなにもいない犬小屋があった。
 わたしは屈んだまま何十分かそこにいた。家の前を通り過ぎる人たちが、わたしを変な目で見ては去っていった。
 なにも考えずに、鉄の塊のような身体を立たせる。そのとき最も激しく頭痛がした。脇の下は隙間だらけで、服の間を通り過ぎる風が痛く冷たかった。
 わたしは意を決して家を離れようとした。けれど、そのとき、なにかを踏んでしまった。紙が潰れるような音だった。見ると、それは先ほど悪魔が落としていった物で、何枚か重なっており、広告なども散らばっている。もう、わたしには関係のない公共的なものの字面が連なっていた。中には〝生命保険〟という文字や交通事故死者四名と大々的に記されていた。
 わたしはその紙を放置し、本当に家を離れることにした。

〆 〆 〆

 わたしはずいぶん歩いただろうか。閉店した店のかすかな明かりや街灯さえ心細い光を放ち、それを見る度に景色が歪み、身体が言うことをきかないけれど、いまでもよく遊んでいる公園までは来れたようだ。それほど大きくはないけれど、他と比べると外灯が何個も円を描くようにしてあって、不思議なところだった。
 わたしはそこでいつもブランコに乗る。今日もその調子で、入口をまたぎ、大きな砂利音をなでるようにしてそこへと座った。そして同時に真っ赤なブランコはキーキーと音を立て、わたしの身体を簡単に揺らした。
 公園には桜の木が植えてあって、ちょうど咲き誇っていた。季節を考えれば、もうとっくに散っているはずなのに、確かにわたしにはそう見えた。まるで花びらが真っ赤に染まっているように見えた。綺麗だった。わたしがいままで見たものの中で一番、綺麗だった。
 しばらく揺れる中でわたしはうとうとしてしまい、いつの間にか眠ってしまった。気持ちよかった。もう頭痛もしないし、身体も重くない。吐き気もなければ、悲しくもない。ただただ、気持ちよかった。


〆 〆 〆

 わたしが目を覚ましたあと、父と母と梨央、それにジョンが公園の前で待っていたことは、もう誰にも言えないことだけれど、それでも、わたしは喜んで、真っ白い家族の元へ走っていった。