【雑記ノート】(おまけコーナーを作成中!)

2013年5月12日日曜日

『暴走ポテトの秘密』


  『暴走ポテトの秘密』
                            葵夏葉


 私があの焼き芋屋を見掛けたのは、つい三ヶ月前のことだった。
 その日は朝早くに妻と一緒に目が覚めて、軽めの朝食を摂った。それからひとりで公園へと散歩に出掛けたが、平日ということもあって人は少なかった。その代わり、街路樹に留まった小鳥は歌うように鳴き、すべり台で遊ぶ子供の声が呑気な日常の一ページを思わせた。
 何気ない空間に癒され、なんとなく私はベンチに座って目を閉じていた。秋空の陽光はほんのりと温かく、髪の毛の薄い頭部も気にならないほどだった。
 そうして時刻が午前九時になろうとした、そのときである。遠くの方からなにやら拡声器による音声が聴こえてきた。それは次第に大きくなり、聞き取れるほどの大きさにまでなってくると、いままで会話をしていた主婦たちや子供らが立ち止まり、振り返った。彼らの視線を追うように、私も自然と音のする方を向く。すると、住宅街を矢のように走り去る車をそのとき見掛けたのである。それがあとになって焼き芋屋であったことを、その移動販売車から流れている音声が教えてくれた。――イシヤキイモと発せられた言葉は文字通り焼き芋屋を示すものに違いなかったが、聴き取ってから認識するまでの間に、その焼き芋屋は走り去ってしまったのである。そのときから、私の中でこの焼き芋屋に対して若干の訝しさが生まれていた。
 焼き芋屋はどうして売らずに走り去ってしまうのだろうか、と。
 ただし、その一方で、当初の私は安易な心持ちで「この日はたまたま売らずに走り去ったのだろう」と自己完結していた。――が、日に日に焼き芋を買えない人たちが出始めてくると、これは単なる焼き芋屋ではないと不審感を抱かざるを得なかった。しかし、具体的にそれがなにを意味するのか、誰ひとりとして理解できる者はいなかったし、日々の忙しない暮らしの中でそのような疑問に時間を費やすほどの浪費家はいなかったのだ。
 もちろん、それは私を除いての話である。
 では一体なぜ、私がこのような些細な出来事に首を突っ込むのかと言われれば、簡単に一言で言い表すことができる。
 ――小学二年生の孫がこの焼き芋屋に興味を持ち始めたのだ。
 子供の好奇心とは、ときにどうでもいいようなことに向いてしまうことがある。私が少年だった頃のことを思い出しても、いまでは到底気にもしないような出来事に夢中になったものである。
「ねぇ、おじいちゃん。どうしてやきいもが買えないの」
「ねぇ、おじいちゃん。どうしてやきいも屋さんは行っちゃうの」
 孫は無邪気な瞳を私に向けながら質問してくる。答えないのも不親切であるし、そのうえ子供の頃は誰しもが疑問に思うことが一つや二つあるものだ。
 例えば、「どうして空は青いの」や「どうして地球は丸いの」などの厄介な質問がある。どうにか子供の持っている知識に合わせて納得できる言い分を考える必要があるが、これは非常に大変な労力でもある。これが一度や二度なら許せる範囲だが、毎日のように言われてみると、だいぶ疲れが溜まってしまうものだ。
 現に、孫の母親である陽子さんは、この謎の焼き芋屋に対しての質問には真っ向から無視を続けているというのであるから、苦労は計り知れない。――そんな陽子さんに相反するように、私はどうにかしてこの孫の疑問に答えるべきだという使命感に燃えていた。
 しかし、いざ考えてみても当てのない問いであったことをつくづくと思い知らされた。これは実際、焼き芋屋に接触しなければ判断し兼ねる問題である。
 だが、たったひとつだけ私が自信を持って言えるのは「あの焼き芋屋の目的は焼き芋を売ることではなく、別にある」ということである。それがなんなのかはいまだ不明だが――

 とにかく、部屋にいる孫の様子でも見に行こう。
 時刻は朝の九時前。そろそろ、あの謎の焼き芋屋が家の前を通る時間だろう。昨日、一昨日と来なかったので、今日は来る可能性が高いと予想していた。
 すると、案の定、イシヤキイモと鳴り響かせながら、右から左へと音が流れていく。家の中にいてもしっかりと耳に残る確かな音だ。一度目に音の発信源を特定しようとするが、二度目に聴いたときにはすでに離れた場所に移っている。
 噂をすれば影が射すとはこのことである。正当な営業を行わないあたり、仕事に不真面目な人間かとも思わせるが、奇妙なことに週に三回の割合は一定していて、そのどれも九時前に集中している。そのことを考慮すると、営業時間には厳しい性格なのだろうか。それとも、早めに終わらせて帰りたいだけの人間なのか。
 謎は謎を呼ぶと言うが真実が見えてこない。
 それにしても、孫の姿が見えないのだが、どこにいるのだろう。
「健太――」と声を掛けてみる。しかし、返事がない。
 私は孫の部屋を覗いてみたあと、家の中をぐるぐると回って歩いてみたが、けっきょく見つからず、どうしたのかと不安になっていると、「おじいちゃん、今日も暴走ポテト捕まらなかったよ」と健太が玄関の扉を開けて現れた。私たち二人の間では、あの焼き芋屋だけを暴走ポテトと呼ぶことにしていた。名付けたのは孫の方で、中々のセンスのある名前ではないかと思う。――確かにあの車は暴走している。誰が停められるというのだろう。
「そうか、そうか。外に出ていたのか。それで今日もあの焼き芋屋は停まらなかったわけだな」
「うん、だから、ちょっとがっかりしちゃった」
 うつむいて気落ちしている孫を見ていると、ついつい気の毒に思ってしまう。というのも、健太は焼き芋が大好きなのだ。そうしてもう少し厳密に言うならば、焼き芋屋で売っている焼き芋が好きなのである。それも寒々とした外で食べる温かい焼き芋は格別美味しいらしい。なんとなくそれは私も知っていた。――だからこそ、私は健太に焼き芋を食べてもらいたいのである。
 毎年、肌寒い季節が近づいてくると、健太はワクワクするのだと言う。
 そんな孫を見るのは、私としても幸せだった。

 ある日の朝、近くに引っ越してきたという田中さんと我が家の陽子さんは些細な世間話をしていた。話は盛り上がり、二人とも穏やかな気持ちになっていた、その矢先、時刻はちょうど朝の九時前に差し掛かろうとしていた。
 この日も暴走ポテトは西の彼方から走ってきた。初めは小さな音も、段々と近づいていくに連れて大きくなっていく。
 すると、田中さんの息子が急に家の玄関から飛び出して、道路の真ん中に立ったという。陽子さんはそのとき知らなかったが、あとで聴いたところによると、すでにその息子は一度暴走ポテトを停め損なったらしく、今度は是が非でも停まらせてみせると意気込んでいたそうである。
 しかし、暴走ポテトは子供が道路の真ん中で手を広げていても、「焼き芋屋さ――ん」と叫んでいても、最初だけ速度を落としただけであり、あとは間近になると道の端に沿って進んで難なく障害を越えてしまった。あとに残った三人は思わず唖然として、小さくなっていく車の後ろ姿を眺めていたそうである。
「――それにしても、あの焼き芋屋さんはどうして停まってくれないのかしら」と、息子を叱ったあとに田中さんが言う。
「さあ……」と半ば怒りさえも湧き起こる隙間さえないほどに、陽子さんも思いのほか不思議に思っていた。しかし、この近所どこで訊いても同じような返答ばかりである。
「誰が乗っているのか見ようにも、ちょうど朝日が反射して見えないのよ……」
 しかし、今回、田中さんの息子は暴走ポテトが端にそれるまで車と真正面で向き合っていたのだから男女の区別はできたはずである。
「ねぇ、そう言えば、誰が乗っていたか見えた? やっぱり、怖い男の人かしら……」と陽子さんが訊いた。
「女の人だったよ――」と少年は悪びれずに答えた。
 その情報は瞬く間に近所中に広まった。どうでもいいと聞く耳を持たない人も多かったが、買おうとして失敗した人たちなのだろうか、眉間に皺を寄せて暴走ポテトの悪口を影で言っていた。
「女性だなんて信じられます、奥さん」
「いいえ、信じられませんわ」
「全く、最近の若者は、これだから困りますわ」
 私は全く根拠のない意見に反発する気にもなれなかったが、今回の件に関しては暴走ポテト側に情状酌量の余地はないように思えた。事実を事実として捉えるのなら、近所の人たちは迷惑を被っている被害者とも言えるからだ。
 しかし、このまま問題を放置しておけば、近所迷惑の度を越えて周辺の平安を乱しかねない。風が吹けば桶屋が儲かるという具合に、我が家にもお門違いの怒りが舞い込んでくるかもしれない。
「ああ、どうしたものか」と私が机に頬杖をつきながらため息をついていると、後ろで健太が頼り甲斐のある確かな声で「僕に任せてよ」と言った。それに気付いて振り返ると、彼は満面の笑顔で立っている。
 この子に任せてよいのだろうか。いや、任せてはいけない。
「健太、大丈夫だよ、おじいちゃんがなんとかするからね」
 続けて優しい口調で「これは大人の事情だからね」などと諭すようにも言ってみるが、孫はあまりこの道理を理解していないようで「うん、大丈夫。僕がなんとかするよ」と言って聴かなかった。
 最初はそれが不安だったけれども、よくよく考えてもみれば、この子にできることと言ったら、お使いくらいなものだった。それすらまだ危ういかもしれない。そんな子に一体なにができるのだろう。私は思わず心配しすぎた自分を嘲笑した。――それから割合に天気のよい日だったために、部屋の窓を少しだけ開けて、冬枯れの暮れかかる夕日に心を奪われながら一句詠むことにした。
孫のため 石焼き芋を 買いたいな
 要は買うことができれば、それでいいのである。そのような結論に達し、自分は少しその場で横になることにした。

 しばらくすると、廊下から伝わってくる肌寒い風が脇の下をすうっと通り抜けた。無意識のうちに寒いと思い、身体を縮こまらせて背中に掛けてあった毛布を顔のあたりまで被せた。しかし、毛布など被せた覚えがなかったので、ふと、はっきりとしない意識のまま身体を起こすと、思いのほか部屋は暗く、障子を通して見ることのできる外の景色もいまでは夜闇が忍びつつあった。
 それで自分が先ほどまで寝ていたことに気が付いた。
 薄暗い中、壁に掛けられた柱時計を見てみると、時刻は夕方の五時半だったが、最近は日没が早いため、もう外は暗かったのだ。
「アナタ、起きましたか」と廊下から歩いてきた妻が言った。
「ああ」と私はまだぼんやりとした頭で答えた。
 部屋の窓が閉まっている。毛布が掛けられている。これは全て妻のおかげなのだと察した。ありがたい。しかし、そう言えば、健太はどうしたのだろう。姿が見えないが――
「健太はいるか」
「先ほど私が帰ってきたときには隅から隅まで家中暗くて、誰もいないようでしたわ」
「部屋で寝ているのかもしれないな」と私は言いつつ起き上がった。
「アナタがご存知だと思っていましたが」
 妻は電気を点けた。二人のあいだに、わずかな緊張が走った。
「いいや、私も知らないうちに寝ていた」
 妻との会話を切り上げ、健太のいる部屋へと行ってみることにした。寝ているかもしれないので、そっとドアを開けてみたものの、誰もいなかった。それから台所やリビング、トイレなど見て回ったが、健太はいなかった。
「いないんですか」と妻は不安げに訊いた。
「ああ」と私も妻の声の調子に合わせて頷いた。
「外に遊びに行ったのかもしれませんね」と妻は外を見ながら言った。しかし、健太は小学二年生なのである。男子とは言え、決して活発的な方ではなく、見慣れない夜道をひとりで歩くことを特別嫌う子であり、近くにいればいいが、もし街の迷路に踏み入れてしまったら、ひとりでは帰ることができないだろう。妻もこのことは熟知していた。ただ、遊びに行くという軽い気持ちで誰かと一緒にいるのであれば、若干でも安心だからこそ、そう思いたかった気持ちがあったのだろう。それは自分も同じである。私が眠っている間に出掛けたことは間違いないだろうが、そのときはまだ日が出ていた。思い立ったが吉日というのが健太の専売特許であり、焼き芋屋を見つけようと安易に飛び出して行ったのだろう。現に、健太の靴がない。これは私の監督不行き届きが原因だった。
「お前は夕食の準備をしていてくれ。私が健太を探しに行こう」
「分かりました」
 表面では冷静を装っても、どこかぎこちない私の動作に妻も不安を隠せなかった様子だった。
 私は自分の分と健太の分の上着を持って家を出た。
 外は想像していた通り、家の中よりも二度ほど温度が低いのではないかと思われた。横風が吹いているというのも寒さの原因かもしれない。昼間に感じられた暖かさは、もうどこかに行ってしまった。
 私は玄関を閉めてから、ふと、立ち止まって考える。
 まず、第一の選択は左か右かということだった。家の前の道路はしばらく曲がる小道もなく真っ直ぐに横へと伸びている。左に行けば、近いうちに狭い道へと入り、突き当たるとそこは行き止まりだ。私はいま仕事先から帰ってくる陽子さんにその場所周辺を探してもらうように連絡をした。
 一方で、私は右の道を行くことにした。というのも、道に沿って直線に歩いていくと駅に突き当たるのだ。その周辺は人の数も多いし、それになにより車の数が多い。背の低い子供が懐中電灯ひとつない状態で歩いているとすれば、つい最悪の事態を想定してしまう。
 健太の性格的に、道端で見掛けたスイセンやカンツバキに見とれて道草を食っていることもあり得るし、なにより健太の歩く速度は大人のそれと比べると、さほど速いものではない。いくら夕方頃に出掛けていたとしても、そう遠くない距離にいることは推測できた。
 私は吹いてくる冷たい寒風に反発するように、ひたすら歩いた。
 青白い街灯が左右に道なりに並んでいる。十五分ほど歩いたが、特別代わり映えのしない景色ばかりが続く。それと言うのも、このへん一帯の住宅街はこれといってめぼしい建物もなく、淡々と住宅の屋根が並ぶだけという、子供にとっては分かりにくい作りになっているからだ。しかし、だからこそ複雑に入り組んだ碁盤の目のような道に気まぐれで入るようなことがあれば、本当に行方が分からなくなってしまう。
 一歩、二歩、三歩と心なしか焦りが生まれて、いつしか競歩のような歩調に変化していたが、しばらくすると息が荒くなり、吐息はいつの間にか白く熱を帯びていた。そうして体全体が熱く火照ってくると、髪の毛の少ない広い額から汗がにじみ出て、打ちつける鼓動が急ごうとする気持ちに拍車を掛ける。
 私は疲労し、少しのあいだ街灯下で休むことにした。
 握り締めていた皺だらけの手をあけようとするが、動かせない。拳はそのままの形を維持しつつ、痺れてしまったようだ。
 先ほど小さな店を通り過ぎたとき、店内には時計が壁に掛けてあった。それを覗き見てみると、探し始めてから三〇分ほど経ったことが分かった。よくよく辺りを見渡してみると、信号機の色合いも目立つようになっている。そろそろ交通量の多い通りだろうか。
 寒々とした薄暗い街灯の下を健太が歩いたのなら、きっと寂しさを覚えて泣いてしまっているだろう。こうしてはいられない、そう思い立ち、また歩き始めた。
 すると、前方にほのかな橙色の明かりが見える。間違いなく周りの建物とは別物の光である。その場所ならなにか分かるかもしれないと思い、近付いてよく見てみると、空き地に屋台らしき車が停まっていた。しかし、おでん屋ではない。焼鳥屋でもないとすると――などと考えていると、屋台の前にひとつだけぽつんと簡素なパイプ椅子が置かれていた。そうしてそこに座っているのは健太ではないか。後ろ姿でも分かる。
 思い掛けぬ光景に自分はハッとした。
「健太」と思わず私は叫んだ。すると、振り返った健太がこちらを向いて走ってきた。言葉を交わす前に私に抱きついてきたこの小さな身体の主は、鼻水を垂らしながら涙も流している。よほど夜の道は怖かったのだろうなと想像できた。
「よしよし」と私は小さな健太の頭を撫でる。
 ハンカチで顔を拭いてあげて、自分も健太に負けないくらいに抱きしめる。ああ、健太の匂いがする。一度だって忘れたことのない、健太の匂い。ああ、それは焼き芋の匂いだ。
「あれ……まさか」
 私自身もやっと落ち着いてきたのか、いまだ私に抱きついている健太に上着を被せ、屋台を見る。それは紛れもなく、あの焼き芋屋だった。
「ど、どうして焼き芋屋がこんなところに」
「いや――、おたくの息子さん、よく食べるね――こっちも作り甲斐があったってもんだよ、うん」
 頭にタオルを巻いた女性が、両手を腰に当てて笑っている。この光景はまさに、いままで望んでいた暴走ポテトの真実ではないか。しかし、いまはあまり積極的に詮索しようと思わない。というのも、健太が無事だったのは、この焼き芋屋のおかげということもあって、その問題に対しては保留という風に頭が判断したのだ。もちろん、元を正せば、と言いたくもなるが、いまはいい。とにかく、無事でよかった。
「健太は、焼き芋が大好きなんですよ」
 自分の口から自然と出た言葉はそれだった。昔から健太は焼き芋が大好きで、そのために今回、焼き芋屋さんを停めようと思っていたのだ。
「その子さ――、この焼き芋屋を探して歩いてきたんだってさ。向こう見ずって言うのか、なんと言うのか。だって、今日、ここに停めたのも自動販売機でジュース買おうとして停めただけなんだから」
 気さくなこの女性は呆れながらも終始快活な調子でしゃべった。年は若くもありそうだが、かれた声の質はどこか中年層を想像しなくもない。女は付け加えるように「ただ、アタシはそういうヤツは好きだけどね」と笑った。
「よくやったな、健太。偉いぞう」と私は褒めた。
 健太はそれを聴いて「えへへ。見つけたよ、おじいちゃん」と顔を上げて、部屋で笑ったときのような満面の笑顔を、いままさに私に見せてくれた。
「うん、ありがとうな、ありがとう」と私はいままで以上に頭を撫でた。それに健太は喜び、空き地に笑いがあふれた。
 女性の態度が予想していたよりも軽快だったので、ここはやはり、どうしても私にはこの人に訊いておく必要があると思えてならなかった。なので、軽い気持ちで尋ねてみた。
「どうして焼き芋を買わせてもらえないんですか。私どもの近所では皆さん、とても困っていますよ」
 そう私が言うと、女性は急に余所を向いて「いや――、その――」と口を濁しながら「事情がありまして――」と言った。
「どんな事情なんですか。それだけ訊いたら、私どもは帰ります。他言は致しません。ある意味、孫を助けてくれた恩もありますし」
「……分かった」
 女性はしばらく言おうか悩んでいたが、吹っ切れたのか、開き直ったのかは判然としないが、堰を切ったようにしゃべり始めた。
「実はさ、おたくの子と同じくらいの年の息子が、トラックと事故っちゃって、医者が全治三ヶ月って言うから毎日病院に通っていたんだけど……アタシ、車を持ってなくてさ。最初は徒歩とかバスでなんとか通えたんだけど、自宅から病院まではけっこう距離も離れているから、そのうち身体は疲れるわ、金はなくなっていくわで、困っていたんだよね。乗せてくれるような知り合いはいないし、入院代だってただじゃない」
 女は焼き芋屋の車に視線を向けた。
「何度か病院にはこの車を使わせてもらったかな。もちろん、商売しないのは悪いとか思ったけれど、それは朝だけさ。こうやって、ときどき通った人に売りつければ、一応は仕事になるのよ」
「でも、それなら、最初の入院だけ急げばいい話ですよね」
 女は痛い所を突かれたと思ったのか、顔色が一瞬だけこわばった。
「それは……朝は直ぐに会いに行くって約束していたからさ。商売なんかしていたら、時間が遅れちまうだろ、だから」
 女はしゃべりながら、焼き芋屋の照明を消していた。
「だとしても、住宅街を猛スピードで走り去るのは危ないですよ」
 と私は言いつつ、健太を見て「小さな子供もいるのですから」と付け加えた。
「……確かにね。言われてみれば当然のことだったのかもしれない。それは謝るよ。ごめんなさいね」
 彼女は片付ける手を休めて、健太を見つめながら言った。それを見ていた私はなにか彼女にとって大切なことを言ったのかもしれないと思った。
「でも――」と彼女はうつむきながら静かに呟いた。
「でもね、容体が急変して具合が悪くなっているって医者の人が言っていたのに、あの子、アタシが一緒にいるときは元気に笑うんだもの……そんな子を見ているとね、一分でも一秒でも、一緒にいたいって思ったの」
 最初は快活な彼女には不似合いなほど小さな声だったが、だいぶ後半になってくると声は大きくなっていった。
「そうでしたか。そのような事情があったとは知らずに、こちらも失礼しました」と私は頭を下げた。
「いや、アタシも自分のことしか見えてなくて、迷惑を掛けたようだから申し訳ない」と彼女も軽く頭を下げた。
 邪険に扱えない話だけに、こちらは少し戸惑ってしまったが、同じく子供を持つ身としては共感してしまう。そんな彼女には母親としての愛情を感じた。
「早く退院できるといいですね」
「実はさ、そろそろ退院できるんだよ」と彼女は笑顔で言った。
 それから彼女は子供と二人暮らしをしているということやいろいろな仕事をして養育費を賄っていることを話した。
「この商売は楽だね、いや――、ホント。ただ、車は元の場所に戻さなくちゃならないから面倒かな」
 世の中にはいろいろな人がいるものだ。それをつくづく実感した。
 私たちは彼女と別れ、手を繋ぎながら、星空の下を歩いた。
 少しだけ服についた焼き芋の匂いは、忘れない思い出となった。
――そして、もう、暴走ポテトは現れなかった。

『夢見』


  『夢見』

                            葵夏葉


「なあ、俺、面白い夢見たんだぜ」
 突然、松永が調子はずれの声を出した。そのハスキーな声は元来小学校から変わらず、ときにそれが彼を老けさせた。そして腕まくりした腕は高校生とは思えないほどに太く、力強い印象を与える。それにも関わらず彼はスポーツを一切行わず、代わりにエレキギターを持ち歩いては所構わず演奏するという趣味を持っていた。後ろで束ねた髪が特徴的である。今日のような休みには、なんの連絡もなしに竹田の家に上がり込み、勝手に熟睡しているのだった。
「はあ?」
 松永と比べると細身の竹田は、新刊の流行雑誌を集中して読んでいた最中であった。雑誌の表紙には「今再び蘇る歳時記」と大きく書かれている。竹田はわずかに肩を微動させたあと、何がどうしたという風な口調で返答した。その瞳は冷静さを表面に携えているが、どこかまだ垢抜けない少年の色をしていた。特徴といえば黒縁の眼鏡だろう。松永とは幼馴染みである。
 窓外は列植された街路樹が紅く染まり、秋意を感じさせていた。灰色に染まる空は秋の陰りを深くしている。それはどこか不安を募らせる色だった。
「急にどうした、お前。柄でもないな」
 竹田は胡座(あぐら)を組んでいた身体を後ろへ向け、松永にゆっくりと疑問を投げ掛けた。
 微笑して竹田が言うと、その言葉に対してにやける松永。茶色の長髪が(あや)しく光る。
「いやな、別に普通の夢なら言わねえよ」
 松永は寝ているときも手放さなかったエレキギターの弦を指で四回弾いた。電源プラグが差し込まれていなかったので、空の音調は直ぐに消えた。
「なるほど。ということは、相当面白い夢だったんだな?」
「ああ」
 松永は座布団から半分身体を持ち上げ、目玉をくるくると動かしながら、奇妙な笑みを浮かべた。
「なんだよ、気味悪いな。なにを見たんだよ」
 竹田は松永の奇行を気にしながらも立ち上がり、雑誌を本棚に戻そうとした。そうして、そろそろ溜まってきた雑誌も捨てなければいけないなと感じていた。その後ろで松永は静かに言う。
「それはな……」
 松永は語り始めたと同時に、タンス横の差し込み口に電源プラグを挿し込んだ。その直後、竹田は部屋の異変に気付き始める。
「……? ……おい、地震だ……」
 竹田はベージュ色の天井や銀杏(いちょう)黄葉(もみじ)がちらつく窓外を見ながら冷静に言った。最初は机上の筆記用具や白磁ペンダントライトが、わずかに音を立てたり、微動したりするだけだったが、一分もしないうちに大きく揺れ出した。
「地震だ!」
 竹田は声を張り上げて言った。松永に注意を促したつもりだったが、先程から彼は立ったままエレキギターを(いじ)っている。竹田はそれに呆れを通り越して憤りを感じた。
「なにやってんだ! 早く机の下に隠れなきゃ!」
 竹田は大きな声で叫んだが、以前として松永は聞き耳を持たない。そんな彼に対して、竹田は肩でも叩いてやろうかと考えたが、揺れが段々と大きくなるに連れて、立つことでさえ難しくなってしまった。
「くそっ」
 竹田がなんとか体勢を整えようとしていると、松永は突然ギターを弾き始めた。全く揺れに動じない松永は不気味な笑みを浮かべながら、夢中で妖しげな音色を部屋に響かせる。竹田は思わず息を()だ。そうして竹田は一体何故、彼は大丈夫なのだろうと思ったが、その四秒後、揺れに耐えられなくなった茶色い天井が歪み出し、少しずつ落ちてきた。割れ目の出来た壁からは、容赦なく秋寒(あきさむ)が吹き荒れる。これ以上は生死に関わるほど危険だと思った竹田は、
「危ない!」と声を張り上げたが、その直後、大きな板が落下し彼の視界を遮った。
 それから間髪を入れず天井が崩れて、彼らはその下敷きになった。
 ――一瞬だけ遠くに見えた窓の外には、四匹の蝶が飛んでいた……。

〆 〆 〆


 そこで松永は夢から覚めた。
 彼はなんともおかしい夢を見たと思って、首を振った。束ねた後ろ髪が左右に揺れる。どうして竹田の家が倒壊したのかと考えて、その直後に苦笑した。現実では起こっていないことも夢なら有り得るのだと、彼は内心そのような夢を嘲笑った。
「馬鹿らしい」
 松永は今英語の授業を受けている。語学が苦手な彼にとって、これほど眠気を誘う授業はない。彼には、現在、教壇に立っている化粧の濃い女性が念仏を呟いているのか、それとも、眠気を誘う呪文を唱えているとしか思えなかった。その上、この教師は化粧の乗りがいい日はとても饒舌になる。
「はい、ではみなさん、段落④の文を見ましょう。



You have already passed away.
And you don't awake out of a dream.
However, the only one has a method to come out of a dream.
It means the collapse of the dream.
はい、そこ寝ない」
 机に顔を伏せている学生は注意されたが、一向に起きる気配がない。それでも繰り返し教師は罵声を放っているので、仕方なく左席の松永は寝ている男子の肩を教科書で叩いてやった。すると、叩かれた学生は寝ぼけた顔で、
「あれ? もう授業終わった?」と言ったので、教室中が一斉に笑いの渦になった。
 それを聴いていた後ろの生徒が「そう言えば、松永は教師には相手にされてねぇからいつでも寝られていいよなぁ」と言った。
「いいや、逆に何かすればアイツに眼を飛ばされるからな、うぜえ」
 その後、教師の耳元に外から甲高い声が届くと、外を見ていた窓際の生徒を指差して「はい、そこ、女子見ない」と注意した。
 窓の外を眺めていた生徒は呆れて溜息を吐き、直ぐに弁解しようとしたが、周りが笑い出したので、頬杖を突いて不機嫌な表情のまま黙ってしまった。
 四人の女子が昇降口に向かって歩いている。何故なら、体育があったからである。今年は男女共にテニスをすることになっている。
 金切り声が響く昇降口とは反対側に、四十四年前の創立以来から植えられている、四本の桜の木が横に並び、散り始めるほどに咲き誇っていた。――生徒は、この桜の花を遠目で眺めていたのである。
 松永は窓際の男子が本当は何を見ていたのかを理解していた。自分も寝る前に何度か窓の外を一瞥(いちべつ)していたからである。しかし、何か物足りなさに似た、不満のようなものを感じ始めたので、見るのを止めにしたのである。加えて、ずっと外を眺めていれば教師が此方をにらめつけてくるのも予想できていた。
「次、ユカリさん、四ページ目の文頭から」
「はい、

Do you know?
It says that the body is buried under a cherry tree.
I continue sleeping there since before you came.
Your dream is my dream.
The butterfly is flying to the surroundings of a cherry tree.
You will look at and realize it.
It says that this is a dream.

 教師と生徒が何やらしゃべっている間に、松永は外の物足りない景色のことを考えていた。もし自分が見落とした箇所があるとするのなら、もう一度よく見る必要がある。窓際の男子が注意されたことで改めて松永はそう思った。
 窓際から二番目の列ではあったが、彼はより詳細に景色を捉えようと左側に顔を向けると、左席の女子と目が合った。しかし、松永は気にせず外を眺めると、何かが四つ、空中を飛び交う花弁の上空にゆっくりと漂っていることに気が付いた。
 それはシャボン玉だった。四つのシャボン玉が空中を漂っている。鮮やかな虹色をしたそれは桜の花びらを映しながらも流れるように浮かんでいる。いずれその形が尽きるまで辺りを浮遊するのだろうと彼は思った。
 ユカリはまだ英文を読み続けていた。終わらない文字を追っていくように、彼女の口調は早まっていく。


As much as you are going to escape from "death", "four" numbers press you.
"The death" wipes out tomorrow, and "the dream" creates tomorrow.
The memory expresses your existence in itself with a vague thing.
If memory fades away, you disappear. Of course I in you disappear, too.
"The soap bubbles are signposts to a cherry tree"

 松永はそのシャボン玉が窓の視界から見えなくなるまで、じっくりと眺めていた。時折、彼の行為を気になった左席の女子が「なによ……」と呟きながら睨め付けたが、彼は何も動じなかった。偶然、教師も黒板に何やら長文を書いていたせいか、彼には気付かなかった。そして、彼は先程のシャボン玉のことを考えていたら、いつの間にか自分のことに考えが及んでいた。
 こうした日常的な憂鬱に囲まれていると、何も考えていなかった中学生時代の方がよかったと、彼は心の底から思った。だが、中学生の頃にどういったことを感じていたのかは、実の所忘れてしまっているのである。
「今度、松下に行かなきゃな」
 松永は軽音楽部に所属している。男子が大半で女子はほんの一握りしかいない。因みに、松下とは松下工房のことであり、東京都内のギター工房を指していた。
 昨日は日曜日だったが、彼は丸一日エレキギターを弾いていたので、今日は眠くてしょうがないのである。そうして彼は机に両腕を真っ直ぐに置き、顔を机の表面にくっ付けるようにして背を曲げた。リズムのない授業の音は、電源が入っていないときに弾いたエレキギターの音だと彼は思い、物憂げに呟いた。
「しょうもねえ音……」
 大きく欠伸をして目を閉じる。すると、ユカリが最期(・・)の行を読んでいた。





"Im already all right".
So I want you to inform my father, you do not cry when I am fine.

 松永は眠気で視界が呆然とする一方で、何か不思議な余韻を感じていた。優雅で品のある声にどことなく悲しさと喜びを抱き、それが耳元に残っていた。白のカーテンが揺れて風が通り過ぎ、空へと上っていった。
 松永は静けさの中にある安らぎに満たされ、もう一度その声を聴いてみたいと心から思った。すると――
「ねぇ、今の英文、私が書いたんだよ」
 女の子の声がかすかに耳に届く。何かと思い耳を澄ませると、何故だか急に教室内が静かになっていた。松永はどうしたのかと目を開けて顔を上げてみると、今まで授業をしていた英語の教師や仲のよい友だち、そして声の正体もいなかった。しんと静まる教室中どこを探しても、誰一人としてその場にいないのである。それは彼を明らかに嫌な気持ちにさせ、ある恐怖に似た気配を感じさせた。不安と焦燥で混乱し始める頭を整理しつつ、彼は冷静に考えようとするが、その矢先、突然教室の扉が開かれた。そこから黒縁眼鏡の少年、竹田が額に汗を出しながら、
「松永ッ! 早くしろ! あとはお前だけだぞ」と叫んで手招きしている。
 松永はなんのことなのかさっぱり分からず、気が動転しながらも竹田の方に歩く。その直後、シンバルのクラッシュ、テレビの砂嵐、工事現場、どれを取ってみても、これほど大きな音はないと言えるくらいに、とてつもない音が松永の後ろでした。そうして、彼らの身体は大きく揺れ、松永が何事かと急いで後ろを振り向くと、教室が何者かによって破壊され、外の景色が丸見えになっていた。松永から見て、数歩先の所で建物が真っ二つに分かれたのである。間一髪という所だったのだろうか、彼は全身の毛が逆立った。――視線下には無残にも粉々になった外周壁や吹き付けタイルがバラバラになっていた。
 竹田は、
「最早これまでかッ」と嘆いたあと、しばらくその場で切歯扼腕(せっしやくわん)していた。松永は事情を訊いたが竹田はひたすら首を振り、何やら思案しながら階段を駆け下りていった。
 そして、松永は目の前に広がる情報をできるだけ冷静に考えた。四階にいるので外の景色が高く見え、彼の目下にはグラウンドが四方にだだっ広く見えていた。そうして彼の目の前には無視できないほどに大きくて黒いモノが二つ立っていた。太さは人間同士が手を繋いで輪を作ったとしても十二人ほどはあり、それが奇怪であった。心の底から恐怖が溢れて来たのを彼は感じた。
 松永はその正体を暴こうと上を見上げた。すると、そこにはスーツ姿の巨人――歴史の教科書で見たことがある、あの独立宣言で有名な大統領リンカーン――が立っていた。ちょうど目の前に見えるのはその巨人の膝の部分だと、彼は理解した。そして今度は松永を目掛けて足を降り下ろそうとしている。彼は恐怖で(おび)えた。突然の非現実的な出来事に手も足も出ずに尻込みしてしまう。同時に、彼には何か不快な声が聴こえていた。その声は辺りに響き渡り、木霊(こだま)のようになっている。彼が耳に意識を向けると、今正に巨人が何かを呟いていることが分かった。
「人民の……、人民による……、人民のための政治……」
 松永にはそれがリンカーンの名言だと分かった。中学生のときに習って知っていたのである。
「死ぬ!」
 松永は無意識のうちにそう叫んでいた。そして、何がなんだか分からないが、とにかくこれはもう終わりだ、と思った直後、青空に小さな黒い点が見えた。鳥だろうか、飛行機だろうか。それはしばらくすると大きな物体となり、大きな音を立てて運動場に降り立った。それはジョン・ウィルクス・ブースだった。遥かに松永たちよりも大きいが、実際はリンカーンの二分一ほどしかない。残りの特徴と言えば、不可解にもサンタクロースの服装をしていることである。全くと言っていいほど似合っていない彼は、巨人に向かって上空からキックを与え、危機一髪の彼らを守った、かのように見えた。
 大木が折られるときのように、ゆっくりと巨人の身体は地面へと傾き、受身も取れずに倒れた。その際、リンカーンはまた呟いた。
「……夢がある者には、他人と争っている暇など無いのだよ……」
 リンカーンが地面を(とどろ)かせながら倒れたあと、ブースはしっかりと地面へと着地し、驚いて声も出ない松永の方を見上げて、白い袋から古美術的なフリントロック式の小型銃を取り出し、その銃口を彼に向けた。そして不気味に笑ったあと、素早く乱射した。銃は火花を上げたのちに、弾丸は彼を目掛けて飛んでいくが、松永は運よくそれを()けることに成功した。その際、連射が得意ではないフィラデルフィア・デリンジャーは四発打つと不発が起き、何秒間か沈黙を作った。その隙に松永は直ぐ様廊下から逃げようとしたが、これから起きることに対して目を離せなかった。
 いつの間にかリンカーンが立ち上がり、校舎の端に生えていた大木をブースに投げ付けると、勢いよく殴りかかって行った。ブースは飛んで来る大木を飛ぶようにして()け、フリントの当たり具合を調整するため、校舎から遠ざかろうと走ったが、夢中になっていたせいか校門に勢いよく(つまず)いて倒れてしまい、腕を怪我してしまった。それをいいことに走ってきたリンカーンは起き上がろうとしているブースに覆い被さり、右手を掲げた。次の瞬間には殴られるだろうと松永は予想したが、いつの間にかグラウンドにいた竹田が地面に右膝を突きながら左膝を立てて、
「これでもくらえ、リンカーン!」と、ロケットランチャーAT―4の弾頭を二百メートルほど離れた巨人目掛けて発射した。その直後、反動を軽減するため、後方に発射ガスが高速で噴出されたが、無反動砲とは言え、身体的に未熟な高校生には衝撃は強く、回転力の反作用を受けて竹田は大きく()け反った。 ――前方に射出された弾丸は巨人の尻目掛けて飛んでいき、爆音を立てたが、スーツに焦げ跡を残す程度であった。
 松永にはどうして竹田があのような武器を持っているのか理解できなかった。そうして、思うように攻撃が効かないことを知った竹田は驚いたように言った。
「……ちっ、ヤツの尻はクラック・デ・シュヴァリエの外壁以上か!」
 右手を掲げたリンカーンはその姿勢のまま、蚊に刺された人間のように尻を軽く掻いたあと振り向き、竹田を睨め付けた。すると、竹田は使い捨てだった武器を捨て、急いで松永にサインを送った。顔の前で罰点を作り、口パクで「逃げろ」と言っている。松永はそれを見て焦りながらも校舎を出ようと階段を駆け下りた。
 そうしている間に、リンカーンはゆっくりと竹田に身体を向け、中腰姿勢で襲っていく。松永が中央昇降口に辿り着いたときには、巨人が鬼の形相で叫んでいた。
「……今日できることを、明日に残すな!」
 そのときだった。一・二メートルという至近距離から、ブースがリンカーンの後頭部左耳部分を一発射撃した。
「専制者は常にかくのごとし、バージニア州のモットー」
 ブースはそう言ったあと、直ぐ様口笛を吹いた。すると、太陽の昇る方角から高層ビルよりも大きな馬が走ってきた。彼はその馬に(またが)って大急ぎで逃げ始めた。左手に持った重そうな白い袋は騒ぐような音を立てていた。
 竹田は校舎の右手に用意していた一輪車から、別のロケットランチャーAT―4を持って来て、
「なにしに来んだ馬鹿やろう!」と叫びながら発射した。
 ブースの胸部を狙ったロケット弾は、途中まで真っ直ぐな軌跡を描きながら飛翔していたが、突然の横風の影響でブースの首元を(かす)めただけに終わった。
 あとには、『お邪魔するつもりはありません。ご在宅でしょうか? ブース』と言うメモが風に舞って飛んできた。打たれてふらふらしていたリンカーンは、メモが地面に着くのと同時に校舎へと傾き、その範囲に入っていた竹田と松永は叫んだ。
「間に合わない!」
「危ない!」
 青空がリンカーンの身体で見えなくなる直前、松永の瞳に四つのシャボン玉が見えた。そして、潰される瞬間、脳裏にリンカーンの名言が虚しく通り過ぎる。
「敵を無くす一番簡単な方法は、友達になってしまうことだ」

〆 〆 〆

 そこで竹田は夢から覚めた。
 物凄く不思議でおかしな夢だったが、親友の松永が出てきて、結構面白い夢だと感じた竹田であった。
「なんでリンカーンなんて出て来るんだよ。変なの。夢って変だな」
 竹田は母が会社からもらってきた事務所用の椅子の背に、顎を乗せながら座って今まで泣いていたサツキを眺めていた。サツキとは、彼の妹に当たる四ヶ月の赤ん坊のことである。
 つい四ヶ月前まで竹田が使っていたこの部屋も、今では六畳のカーペットが新しく敷かれ、布地のカーテンで覆われた引き窓から淡く差し込む光が、ベビーベッドを弱々しく照らしていた。今はサツキのために片付けられ、綺麗に、というよりもむしろ、竹田の物を一旦別の部屋へと運んだのである。しかし、以前使っていた電気製品のケーブルが幾つか残っている状態で放置されていたので、足元がふらつくばかりである。あとには、右端にテーブルが一つと掛け軸が吊るされているだけであり、掛け軸には「胡蝶之夢……荘子」と書かれていた。
 将来的には、既に暗黙の了解だが、サツキがこの部屋を使うということになっている。そして当の竹田は、少し狭い二階の部屋に移ることになる予定なのだ。実際、荷物が置かれている場所がそこに当たるので、仕方がないのかもしれなかった。――事実、流れとは言え、ベッドを二階に移してしまった所から、部屋を変えざるを得なくなったのである。
 現在、彼は二階で寝ている。移したときに多少掃除をしたが、やはり、しっかりと改めてやらなければ埃を吸って風邪でも引いてしまいそうだった。しかし、そこで四ヶ月持ったのは彼の先天的な免疫力に他ならなかった。
 因みに、二階には四つ部屋があるのだが、そのうちの一つは既に竹田の姉が使っている。つまり、彼は弟か妹ができれば、必然的に二階に移るだろうということを予感していたのである。しかし、現実を直視したくなかったのが実の所本音である。何故なら、倉庫のように使われている一方で、大の男子高校生が使うには狭過ぎたのである。ただ、彼の姉は広い所よりも狭い所が好きだったので、性に合っていたというわけである。
「あ~~あ、あの狭い部屋か――。アネキは狭いとこ好きだからいいけど、僕はあんまり好きじゃないんだよな」
 独り言を呟く竹田。目には怠さが見られ、曲がった背中は日頃からの姿勢の悪い猫背を象徴している。
 竹田にとって今日は久し振りの休日であった。学校もサッカーの練習もない。しかし、姉が無断で出掛けて行ってしまったので、必然的に彼が子守をしなくてはいけなくなった。
「まあ、別に、やることって言っても大したことないんだけどな」
 竹田は、何故サツキが泣いているのか全く見当が付かず、あたふたしていた自分を思い出し、苦笑した。実際、彼はサツキがお腹を空いているのだと考えていたが、結局おしめであった。いつもなら母か姉が代わりにやってくれているので、竹田にとっては殆ど始めての体験である。ただ、彼女らがやっていることをある程度知っているのか、時間はかかったものの、最後は上手くいったのである。
 先程までサツキに気疲れさせられた竹田であったが、ベビーベッドですやすやと寝ているサツキの様子を見ると、どこか愛しさを覚えてしまう。嫌々世話をすることになったが、結局の所、こういうことも好きだなと竹田は思った。そう思うと、なんだか胸の辺りが柔らかくなって、優しい気持ちになっていく。
 そして、また眠くなったのか、(まぶた)が重くなり、周りの景色も薄れていく。こくりこくりと頭を上下させながら、ついに目を閉じると携帯電話が微動して鈍い音を立てた。マナーモードになっているので、それほどうるさくもなく、竹田は眠いので出なくていいだろうと思ったが、眠い気持ちを余所にその鈍い音は鳴り続けた。サツキが寝返りをし始め、直ぐにでも起きそうになるので、彼は仕方なくテーブルに置いてあったそれを取ろうとした。が、左足が散らかっているケーブルに絡み、彼は頓狂な声を発しながら床に倒れ込んだ。ドサッと音が立ったと同時にサツキが目を覚まし、また泣き始めた。それに呆れながらも、まだ鳴っている携帯電話に手を伸ばし、ボタンを押して耳元に当てる。すると、突然の爆発音が耳を打った。反射的に携帯電話を耳から離す。それでも爆発音が鳴り続き、その中からかすかな人間の声が聴こえてきた。叫び声でもあるし、泣いている声でもある。
 そして、しばらくそのまま放置していると確かな声が聞こえてきた。
「おい、竹田! 聴こえるか」
 聞き慣れた声が耳に触れると、安心感と共に不安があふれた。
「松永か! どうしたんだ、その音は――」
「大変なことになった。世界安全保障委員会の発表によると、気象衛星の観測で、もう四時間くらいすると隕石が地球に落ちて来るらしい!」
「そんな馬鹿な。ありえない! 今までなんの放送もされなかったじゃないか。どうしてそんな急に――」
「隕石の軌道がずれたんだ。その事実を隠蔽していたのは政府とメディアらしい……。隕石の規模は、地球の八分の一ほどもあって、みんな助からないんだと! それでどうせ死ぬならやりたいことやって死にたいってヤツがたくさん出ちまって、大変なんだ」
 〝世紀末〟
 そんな言葉が竹田の脳裏に浮かんだ。しばらく彼は携帯電話をテーブルに置くことにした。何度も松永が電話越しに「おい」とか「しっかりしろ」としゃべっているが、もう聞く耳を持ってなかった。
 どうにも信じがたい話だと、竹田は思った。そんな話を誰が信じるだろうか。今まで普通に生きて、普通に家族の帰りを待っているこの瞬間に、世界の終わりが刻一刻と迫っているなどと、彼は一切考えることはできなかった。それはいかにも、「死」を考えたこともない人間が、事故や病気で改めて自身の「死」に直面したときと似ている。まさに、この世界の人間は世界の「死」を想像していなかった。いや、したくなかったのか、それとも、できなかったのか。だとしても、何か対策ができると思っていたのだろう。情報が伝わらない事態など、一切想定していなかったのだ、と竹田は改めて人間の愚かさと虚しさを知った。
 季節外れの隙間風が窓から吹き、同時に騒がしい人の声が聞こえてくる。恐怖と混乱に満ちた人間の声である。
「まさか!」
 竹田は急いでカーテンを引いて窓を開けると、外では走り去る者、転んで立てない女の子、一人で泣いている少年、呆然と立ち尽くす老人の姿があった。中には、
「死にたくない、死にたくない!」と叫び始めて夢中で走っている人間もいる。
 その光景を見て、松永が言っていたことは実際に起きているのだと竹田は認識し始め、急に不安と焦りが生まれた。そして彼は、どうすればいいのだろうか、何かしなくてはいけないと思いつつ、しかし、どうすることもできないのではないかと頭を掻いた。そんな思いが頭の中でずっと回っているのに気付き、それ以上考えるのを止めた。
 竹田は迷った挙句に、いまだ泣いているサツキを抱きかかえ、携帯電話だけを持って家を出た。
 途中、父や母、姉に連絡を試みたが、電波の問題なのか、または仲介地が機能していないのか、誰一人として繋がらなかった。
 竹田の家は大通りから()れた所にあるので、やや迷路のようになっている。道の幅は四メートルもないせいか、狭い空間は一般車で渋滞し、いつもがらんとしていた歩道も今や人込みで(あふ)れている。竹田はとにかく逃げるようにして、どこかに向かおうとしている人達に紛れることにした。しかし、ときどき聴こえてくる、
「どうしたらいいの!」
「分からん、とにかくみんなに付いて行くんだ!」という会話を聴き、彼は自分と同じ考えの人ばかりだと感じた。つまり、その行動自体は直接の問題解決には何も関与していなかったのである。
 各地では松永や竹田のいる所を始め、多くの問題が起きていた。例えば、電車や飛行機である。
 電車は、どうしたらよいか分からず運行を見合わせていたが誰かが辛抱できず、運転席に乗り込んで勝手に操作したせいで、同じように乗っ取られた電車同士が正面衝突するという事件が各地で起きた。
 同じように運行を見合わせていたのは飛行機である。地球崩壊とまで言われた情報によって世界中どこに行っても助からないと全空港会社は判断し、それによって使う人も少ないとの企業の考えに起因するものだったが、死ぬときは祖国の家族と一緒に死にたいという人が思いの外多く、仕方なく飛行機だけは運行を再開することになったのである。その際に、ハイジャックを防ぐためにタンクから燃料を抜いていたので、再び四台ほどの飛行機に燃料を注いでいた。
 ニュースはやっていた。しかし、確かな情報を報道し切れなく、やる意味さえも見失っていた。正しい情報を巡って各地では混乱が続き、ついには諦める人も多くなった。
 途方に暮れていた竹田は、思わずその場でサツキを抱きながら膝を付いた。サツキは今まで以上に大きな声で泣き始め、彼の不安を(あお)ぎ、彼は「死」に対して恐怖を感じ始め、世界が終わることの恐ろしさを必死に考えようとした。
「もう駄目だ……」
 竹田はそう心から思い、無意識に()て空を仰ぐと、そこには四つの漂うシャボン玉があった。虹色に揺らぐそれらは、どこか感覚的に『夢』そのモノを連想させた。そして、彼は思い出したように、
「そうだ。あの人に任せればいいじゃないか。そうだよ、その手があった」と呟いた。
 竹田は即座に携帯電話を開き、最近全く話したことがない、ある名前の人物を探して連絡することにした。画面をスクロールしていくと、友人や家族の名前の中に混じって〝石田(とおる)〟という文字が見えた。竹田は急いでボタンを押した。
 しかし、携帯電話を耳に当てている最中竹田の脳裏には不安と疑問が過ぎっていた。この事態になってからまだ松永だけしか連絡がついた人物はいない。それに加え「最近」という言葉が、いかにも自分の近い前後関係を表していると頭では理解できるのに、そう心で感じないことだった。とても遠い昔のような気がする。
 そうこうしている間に相手は出た。
「はぁい、もぉおしもぉおしぃ?」
 何やら口をモグモグさせながら喋っているようだった。
「やった、繋がった! すみません、訊きたいことがありまして――」
 竹田が言い終わる前に、男は苦笑しながら答えた。
「ああ、言いたいことは分かっているし、私が君に言うことも一つだけだが、君の返答いかんでは話を長くすることもできる。どうする?」
 竹田は相手の言葉に対して何か違和感を抱いた。これは一度ではないような既視感。何度も繰り返したかのような錯覚を、彼は感じていた。
 改めて考えてみると、自分で電話を掛けた人物のことを、何故か知っているようで知らない。竹田はこの状況を打破するにはこの人しかいないと無意識のうちに思っていたのだ。竹田自身もこれが不思議でたまらなかった。
「どうして黙っている」
「……なにかこう、前にもこんなことがあったような気がして」
「君は鋭いな。いや、その携帯のせいかもしれないな」
 石田は何やら独り言のように呟いていたが、竹田はその真意を理解できなかった。
「連絡しなかったのは、君が連絡をしてくることを知っていたからだ」
「そ、それはどういうことですか」
 外の騒動が邪魔をして上手く聞き取れないので、誰もいない小道へと歩きながら竹田は言った。それに対して冷静に受け答えをする石田。慣れているような態度である。
「君が君であって君でないものに私は何度も話をしている。あるときは地震。あるときは巨人。またあるときは隕石。全て君からの報告だ」
「そ、そんな僕は知りませんよ、そんなこと……それよりも今は大変なんです」
「まぁ、落ち着いてくれ。驚くことはないし、動揺する必要もないが、君はいつもそうだった」
「――どういうことですか?」
「実はもう、君に何回もこの会話をしている。ことあることに、君は私に希望を見出して、君自身の、もしくは誰かの世界の終わりを阻止しようと電話を掛けてくるようだ。――事実、その『夢』世界とこの『現実』世界を結ぶことができるのは、私の電話番号が記されている携帯電話、つまりは私の手掛かりを持っている者、と同時に私の存在を認識することができる人物に限られる。その条件を満たしている、『夢』世界と『現実』世界を結ぶことのできる唯一の存在は君だけだ」
「な、なにを言っているのか、さっぱり理解できません。『夢』ってなんですか。『現実』ってなんですか。今、僕が経験していることが『現実』じゃないんですか」
 竹田は八つ当たりのように焦りを言葉に乗せて吐き出した。言えば言うほど自分の中に不安の気持ちが増えていき、そうして何故自分がこのようなことを言ってしまったのかと、半ば後悔し始めた。
「……すみません」
「いや、謝ることはなく、当たり前の返答だよ。いや、当たり前の疑問と言うべきか。君には何度もそう言われて慣れているが、常に君に相応しい言葉が見付からない。しかし、君に説明をする際に必要なのは、『夢』の中に出てきた松永君の存在だろうな」
「……どうして松永が僕の『夢』の中に出てきたことを知っているんですか」
 竹田は疑問の矛先が変わってしまうほどに、気味の悪いものを感じた。できれば聞きたくないような答えが待っていそうであり、不安の中に手を突っ込んで、正体のはっきりしないモノに触れているときの、あの気持ちの悪い感触を抱いた。
 石田は昔のことを思い出すように乾いた声で少し笑ったあと、残念がるように語った。
「松永君のことは、一回目に君が連絡してきたときに聴いたよ。三回目だったか、ユカリのことも……」
 石田の言っていることを完全に理解できないまま、竹田は頭が混乱していた。自分は何度も石田と話していて、そうしてその度に自分にとっては『現実』の話を、石田にとっては『夢』での出来事を話している。直ぐには整理がつかなかったが、少しずつ薄っすらと実体が見えてきた。そうして石田の言っていたユカリとは誰なのか、次第に消えかけた記憶の中にぼやけた空間があることに気が付いた。教室にいたような、けれど、それは実際にいないようで、そもそも同じクラスにそんな子はいなかった、と竹田は何度も頭の中で反芻した。しかし、考えがまとまる前に石田は言った。
「君も『夢』を見ている。松永君も『夢』を見ている。つまり、そのシンクロを可能にすることが今回の実験による意義だったわけだが――」
「実験ってなんなんですか。どうして僕がそんな実験に参加しているんですか。分かりませんよ……」
 石田の話に集中していたせいで、泣き叫ぶサツキの声すら聴こえていなかったが、複雑で難解な話に付いていけなくなった竹田は空を見上げて逃避しかけていた。
「勿論、『現実』では松永君は亡くなったことになっている。しかし、脳はちゃんと生きているということを証明するために、今回の実験に大きな意味があったというのは想像に難くないことなのだが――まぁ、いい。そんなことは。それよりも、もう少し説明が必要だな。これが最後なのだから」
 竹田は答えをつかもうとして逆に遠ざかってしまったような気分だった。石田の語っていることが曖昧で雲をつかむような話だったが、理路整然とした彼の言葉には一つひとつ強さと自信を垣間見ることができ、疑うことさえも愚問のように感じさせる。いかにも実験と観察を繰返してきた科学者らしき気質を想像させるものだった。それでも石田の言っている論拠と証明を聞かないことには話は始まらない。そこで竹田は意を決して、自らその話題に踏み入れることを決心した。
「よく分かりませんが、もっと教えて下さい。この世界のこと、アナタの実験のことを……」
 石田は今までの声とは一味違うトーンで「分かった」と言い、胸の内を明かすように語り続けた。竹田はそれを静かに聴いていた。
「では、君が何故私との会話を覚えていないかの話から話そう。
――『夢』世界では『現実』世界で自然に行われている変化が乏しいのだ。ここで言う変化とは物質的な変化よりも、人間の心理に及ぼしている記憶に直接関係がある。変化を捉えることで人は物事を記憶する。だが、実験中の昏睡状態では海馬の機能が一時休止しているため、視床下部の情報は短期記憶としてしか脳には留まらない。それによって、感じる時間の流れも狂ってしまうし、感覚も鈍ってしまう。故に、君の感覚器官が変化を捉えず、記憶が曖昧なのだ。――君は地震を恐れていたし、松永君は巨大な物に怯えていた。子供の頃の記憶が作用して、経験した内容が歪み、そして歪曲化した『夢』を生んだのだろう」
 一呼吸置いて、石田は言う。
「君は松永君の『夢』を見て、松永君は君の『夢』を見ていた」
 椅子に座っていたのか、回転した際に出る高い音が聴こえる。
「君にも知る権利がある。私たちがどうしてこんなことをしていたのかを……」
 石田の声は淡々として、且つ力強い。それは今も変わらないが、どこか憂いを帯びた口調に変わっていった。
「溶媒に脳だけを浸し、細胞が壊死しないように環境を整えたのだ。それも温度から栄養状態まで管理してね。どんな小さな波長も逃さないように、心電図のごとく脳電図を作って毎日観察していたのだが、一人の状態では意味を成さなかった」
 竹田は脳が溶媒の中に浸されている想像をすることができなかった。代わりに、授業で習ったことのある脳単体の絵が、水分をまとって粘っこくなっているのを想像して吐き気を催した。しかし同時に、溶媒に浸される脳がいかに科学的に魅力を放っていたかを、石田の声の調子から知ることができる。脳は彼らにとって実験台であり、また《物》であったに違いない。機械的に処理をされた脳は全くと言っていいほどに簡素で、ともするとキレイに映っただろうと竹田は思った。その意味で石田は一人の科学者として、純粋に命を探求しようとした立派な人間であるかもしれないとさえ感じたが、やはり、石田の威厳はどこか虚しく竹田の耳に届いていた。
「松永君の脳電図は君とコンタクトを取っている最中に反応していたわけだが、それを証明するには君自身の言葉から聴く必要もあったのだよ。まぁ、あくまでも参考程度にはね。……因みに、君が見たシャボン玉とは『夢』と『夢』を繋ぐための脳の電波信号、つまり、お互いのコンタクトが実体化した姿だと推測される」
 それから石田は「二回目に私はそう言った」と付け加えた。
「もしかして、だから僕を利用したんですか。僕の身体はどうなっているんですか」
 竹田は声を震わせながらしゃべった。石田がどの程度科学に魅力を感じていたことや、科学が命を探求することに対しての威厳など、今の竹田には直接関係がなかった。あるのは、単純に自分の存在についての疑問である。それについて石田は淡々と説明をする。
「君の身体自体は生きている。脳も無事だ。今の所はね。いつダメになるか分からない。――ただね、君はサインしたのさ。私たちが秘密裏にボランティアを募っていたのを、君は偶然見付けてね。君はそのとき、親友の松永君を亡くして塞いでいた。だから、協力してもらうことした」
 石田は(せき)を切ったようにしゃべった。ダムの水が一気に流れるように激しく、雷が大地に降り注ぐように痛々しい音を放つ。
「いいかい、私には娘がいる。そして、その子を殺さないように、私はこうして実験を繰り返している。なのに、頭の堅い政府の役人ときたら、命を弄ぶのは許されない行為とかぬかして強制的に実験をやめさせようとしやがった。誰が命を弄ぶって? 俺は命が大切だからこそ、命を救いたかったんだよ」
 石田の語り方は先程までとは打って変わり、毅然(きぜん)とした態度の「私」は自己主張を前面に押し出す「俺」へと変貌していた。それは冷静さを欠いた非理性的な感情の表れだった。
「だからって――」
「もう君から訊く話はない。もう十分過ぎるほど聴いたよ」
 石田が放つ言葉一つひとつに狂気じみた純粋さと娘に対する優しさが入り混じり、気持ちの悪い雰囲気を作っていた。が、石田は意図的にそれを言ったかのように、演技くさい所があった。さも、台本通りに今までのやり取りを再現しているようだった。
「……だから、分かったのさ。君が何度も同じ質問をする度に冷静に考えた」
 石田の声は喉の奥底からやっと出てきたような声だった。
「……永遠に『死』を体験する『夢』とでも言おうか。誰かと『夢』を共有して行動することもあれば、単にそれは『夢』を傍観者として見ているに過ぎないこともある。その世界の中で記憶は実に曖昧だ。単に存在していることが生きていることに直結しなくなる。曖昧な次元の問題があった。
 ――私は今回の実験で学んだことがある。たとえ人の脳が生きていたとしても、それを『現実』において具現化できないのであれば、彼らの中に苦しみの連鎖が永久に断ち切られることはないということを……そして同時に、私は残酷なまでに科学に魅入っていたようだ」
 半ば懺悔のようにも聞こえてくる石田の口調からは後悔の念があふれていた。竹田は彼の言葉を忘れないために、目を閉じて集中した。
「幾ら仮想空間との時間の差異が激しいからと言って観察が不可能なわけではない。人の睡眠にはレム睡眠とノンレム睡眠があるが、人が夢を見るのはレム睡眠の方だ。それは九〇分おきに二〇分から三〇分続き、一晩で四回から五回のレム睡眠が起きる。特に、このレム睡眠中に覚醒をすると、内容を薄っすらと記憶していることがある。ちょうどこの覚醒が起きるのが、お互いに波長の合ったときだけなのだ。つまり遭遇する確率も低いと言える。 ――ここではまだ実験を行なってから一週間経った所だが、もうやめることにするよ」
 だいぶ声の調子が弱くなっていった。
「つまるところ、精神的な被害とは言え、脳は少なからず損傷を受けている。生死をさまよっている瀬戸際の脳なら尚更もたないだろう。しかも、それが予想以上に早過ぎた……」
 竹田は彼の言う脳が、誰の脳なのかを薄らと理解した。
「人の『死』を受け入れることが、どんなに救いになるのかを、今回私は知ったよ」
 三十秒の沈黙が流れた。ただし、それは四十秒ではなかった。どうしたのかと思い、竹田は問いかけた。
「……石田さん……?」
 電話越しにすすり泣く声が聞こえた。竹田はそれを聞いて黙っていた。
「……私個人が問題を起こしただけなら私が処罰されれば済むことだ。しかし、私に手を貸してくれた研究員のメンバーがいる。彼らを路頭に迷わすわけにはいかない」
 そう言うと、石田は周囲の人たちに聴こえるように今まで以上に明白にしゃべった。
「私の生命保険では少な過ぎるとは思うが、資本だと思って未来へ生きてくれ」
 みなが否定をする声が聴こえる。すすり泣いたような声を出す人さえいる。
「なぁに、命を弄んだ罪さ」
 少しの沈黙のあとに、石田は口を開いた。
「松永君のことは残念だった。力になれなくてすまない。君のことはここにいるメンバーに付き添ってもらって故郷へと送り迎えをしてくれることになっている。だから、安心したまえ」
「……ありがとうございます」
 竹田は自分の言っていることに反発した。感謝を言いたいのではない。しかし、言葉にできない。竹田自身も目尻が熱くなっていた。そうして竹田は今まさに今まで忘れていたかのように『夢』から覚める気持ちに胸が一杯になった。
「――あと言い忘れていたが、今回の記憶を覚えているとは限らないからね」
「え、そんな――」
「それじゃ……ありがとう」
 何やら視界が揺れた。竹田は意識が遠退いていく中で確かではないが、どこかでシャボン玉が割れる音を聴いた……。
 そして同時に、石田の最後の言葉を思い出していた。
どこか優しい声だった。
 そうしてその声が一つの記憶を引っ張るようにして思い出させた。
 松永の夢の中で出てきた女の子の言葉。




ねぇ、知ってる?
桜の木の下には死体が埋まっているということを。
わたしはそこでアナタが来る前から眠り続けているの。
アナタの夢はわたしの夢。
蝶が桜の木の周りを飛んでいるよ。
アナタはそれを見て悟るでしょう。
これが夢だということに。

アナタが『死』から逃げれば逃げるほど
『四』の数字はアナタを追ってくる。
『死』は明日を消し去り、『夢』は明日を創造する。
記憶はアナタの存在自体が曖昧なことを表しているの。
もし記憶がなくなれば、アナタは消える。
もちろん、アナタの中のわたしも消える。
シャボン玉は桜の木への道標なんだよ。

「わたしはもう大丈夫」
だから、アナタはわたしのお父さんに、
わたしが元気なときに泣かないでと
知らせて欲しい。


 そう、それが石田ユカリの願いだった。