罪
葵夏葉
葵夏葉
彼の中には、いつかの苦い記憶がとぐろを巻いていた。
この日、高校生がひとり息を切らしながら、螺旋状に伸びる坂道を全力で走っていた。なにが彼をそこまで駆り立てるのか。いつしか着ていたシャツは皺だらけになり、汗を吸収してわずかに黒味を帯びている。(それというのも、外の気温は真夏と呼べるほどの酷暑だった)そんな中、彼は夢中に坂道を駆け上がる。短髪にも関わらず走ったときに吹く風で髪は乱れ、弾力を持たない硬質のアルファルトに革靴はこすれる。お世辞にも走ることが得意ではない彼の体力は、もうそろそろ限界に達しようとしていた。しかし、目的地にもあと数分で辿り着そうである。
目的地と言っても、それは彼の自宅である。それはこの坂道を登ったところにある竜厳寺というお寺だった。
――坂道を駆け登る。それは言ってしまえば、彼の自己満足であり、はけ口を失った気持ちを開放させるためだけの行動だった。
悲鳴をあげる筋肉を無理やり動かせ、彼は竜厳寺の石段を駆け上がる。夏の照りつける日差しの下、身体中の血液が煮えたぎり、胸は激しく鼓動する。それが起爆剤となって彼はちょうど登り切ったところで絶叫した。とてつもなく大きな声だったが、誰ひとりとして驚くような人はいなかった。それはもちろん彼が、今日は寺の留守番役になっているため、他の僧尼らが遠出していることを知っているからである。
ゆっくりと踵を返し、空に浮かぶ真っ白な積乱雲に向かって、彼は再び絶叫する。
欠けた前歯は痛々しく微動し、額にはいまにも破裂しそうな毛細血管が浮かび上がる。肺にある全ての空気を出そうとする勢いに目もわずかに充血してしまい、喉の奥では針が何度も突き刺さるような痛みが走った。
彼は自分でも、どうしてこれほどにまで感情が高ぶるのだろうかと疑問に思っていた。もしできることならば、こんなことをしたくはない。そうさせるものが、自分の胸の奥からあふれてくるのだ。
空気の抜けた風船のように、胸の内に溜まった想いを全て出し切った彼は、おかしくもないのに笑みを浮かべながら静かに地面へ倒れ込んだ。そんなこともお構いなしに、彼はふと、視線を自分の左手首へそらす。そこにはいくつもの切り傷があった。彼はそれをしばらく眺めていたが、なにかを思い出したのか、とつぜんその場で涙を流し始めた。かれた喉から声を押し殺すように泣いている。
空は青かった。いくつか雲も浮かんでいる。けれど、心は晴れない。左右の木々は気持ちよさそうに風で揺れている。そのせいで、余計に苦しくなる。
大量の汗が出たせいか、夏の生温い風であっても彼は毛布が欲しくなるほど全身に悪寒を感じた。思わず両手で自分の身体を抱きしめたが、体温は上がることがなかった。
そのまま彼はなにもしなかった。下の方から足音がするまでは。
石段下から女性らしき人物が歩いてくる。それを見るなり、彼は叫んだ。
「来るな」
それはたった一匹だけ取り残された犬が、最後の足掻きと言わんばかりに吠え立てるかのような、非常に弱々しい態度だった。その一方、石段を登る足音はそれには動じず、進む速度を緩めない。
「来るな……」
彼はその場でうずくまり、青白い顔を両股に埋めた。それと並行して声は次第に小さくなっていった。
石段を登り切った女性は彼に近づき、
「日下部、また会ったね」と言った。真剣な眼差しだった。
次に彼の肩に手を置く。
「やめろ、触るな……」
それでも女性は動揺せずに言葉を続けた。
「――だったのよ」
その刹那、一陣の風が通り過ぎた。木々のざわめきが彼女の言葉をかき消したかに見えたが、彼には聴こえていたのか、頬に泣き跡を残しながらも女性を見上げた。黒の長髪がこぼれる砂のように揺れていた。女性は柔らかな微笑を浮かべながら、昔話をし始めた。
それを見たとき、彼の脳裏にはあの日の台詞が蘇っていた。
〆 〆 〆
放課後の教室には二人しか残っていなかった。
(……)
彼は女性に背を向けている。
(人を好きにならないなんて間違ってるよ)
(うるさい)
(どうして? 日下部が厳しい寺の子として生まれたから? それだって人間自体を嫌ってるわけじゃ――)
(静かにしてくれ)
彼は近くにあった机を何個か倒した。空の机は簡素な音を響かせた。
(日下部……)
(そうじゃない、そうじゃないんだ! 君が言っているのは一部正しい。けど、違うんだ、違うんだよ!)
彼が「違うんだよ」と叫んだ直後、女性は彼の後ろ姿に抱き付いた。カーテンが大きく揺れる。
彼女は黙ったまま、身体が震えていた。彼は横を向いて口を硬くした。
それから数秒の沈黙が続いた。
突発的な甲高い声が教室に一瞬だけ響いた。
彼は彼女を自分から離し、突き飛ばしたのである。彼はそのまま教室を出ようとしたが、ふと黒板の前で彼女を振り返った。彼女は運悪く膝をどこかにぶつけたらしく、血を流していた。
その瞬間、彼の脳裏にはあの日の過ちが浮かんできた。忘れようとしても忘れられない、あの出来事を。
〆 〆 〆
その日は、木漏れ日の香る秋の空だった。
この時分、紅葉した落ち葉があたりを染めていく。ここも例外ではなく、遠くから見れば趣きのある景観だっただろう。そんなことを彼は考えながら、いつものように寺の石段を掃いていた。
そんなとき、赤の縦縞と橙色の横縞の服を着た少女が下の段から登って来た。この少女はいつも毎週日曜日にやってくる、馴染みの顔だった。
(あれ、みっちゃん、今日はお祖父ちゃんと一緒じゃないの?)
(うん、そうだよ。一人で来たの)
少女は一段一段一生懸命登って、登り切ると彼に、
(おにごっこしよう)と無邪気に笑った。彼が(これ終わってからね)と言うと、頬を膨らませて(いやだいやだ)とせがむので、仕方なく彼は一緒に遊ぶことにした。
けれど、実際やってみると彼は面白かった。少女がどこへ行ってもすぐに捕まえることができたからだ。しかし、一方で、少女はそれが不服のようで、彼に要望を訴えた。
(おにいちゃんはケンケン! ケンケンがいい)
思いっ切り袖を引っ張るので、仕方なく彼はそれを承知する。
(わかったよ。けど、本気で走らないでくれよ)
少女は笑いながら走り出した。意外と片足だと進まない。それに不安定だ。少しぐらつくと転びそうになる。
丸みを帯びた石が必要以上に音を立てる。偶然、いまの時間帯には参拝者がいなかった。つまり、彼は力いっぱい走ることができた。少しずつだが、少女を限られた範囲の中に追い込んだ。それから彼が渾身の力を込めて触ろうとしたが、少女は上手く逃げる。そこへなに振り構わず右手を押しやる。すると、思った以上に身体が傾いた。そして彼はその場に倒れた。
転んだあと、(痛ってえ)と呟きながら立ち上がり、少女を探したが、見当たらない。ふと、石段の下を見下ろすと、中間地点で倒れている少女がいた。
動かなかった。
彼は急いで父を呼ぼうとした。しかし、少女の頭部から赤い液体が流れているのを見つけると、その瞬間、嫌なものが彼の脳裏を横切った。
(もしかすると、あの子は死んでしまったかもしれない。これを言ったら、僕の責任だ)
実際、事故であったのなら、それは仕方のないことだった。けれども、そのときの彼は幼かった。死に対して恐怖があった。震える手をどうにか抑えようとするだけで精一杯の、未熟な子供だった。
彼は怖くなって、寺の影に隠れた。嫌な汗が額から、握り締めた拳から、全身から湧き出るようにあふれた。暗がりの中で、自分の心の中も暗く染まっていった。
何分経ったのだろう。彼は時計など持ち合わせていなかったので、きっと三十分ほど経ったと考えた。しかし、実際は十分も経っていなかった。
後ろの広場の方で騒がしい声が聴こえてくる。もしかすると、あの子が見つかったのかもしれない、と彼は考えた。恐る恐る戻ると、何人かの老夫婦が彼の父と話している。父がその現場に行くと、同時に救急車が来て、少女を運んでいった。
それから、彼は悩んだ。その日一日ではない。ずっと。
彼が少女の病院に行ったのは、一週間もあとになってからのことだった。見舞い用の花束を持っていき、病室の前までは行けた。しかし、どうしてもその扉を開けることができない。彼は悩んだ挙句、扉の前に花束を置いて、その場を去った。
少女の姉がその部屋を出ようとしたとき、その花束に気付いた。姉は、きっと同級生か誰かが恥ずかしくなって置いていったのだと思った。少しほこりを払ってから妹に見せてあげた。ベッドに横たわる少女はそれを見ると、すぐに笑顔になった。
家に帰った彼はその嫌悪感からか、ずっと壁を叩き続けていた。拳から出る血で壁が染まろうとも関係なく、ただ自分が許せない、という想いだけが彼の中で渦巻いていた。
(僕は逃げた……僕は知らないうちに人を傷つける。最低だ……)
以前は三日に一回の頻度で部屋を掃除をしていたが、最近はしていないせいで散らかっている。だが、それも度を越えて、壊れた時計や筆箱など、壊れた物が極端に目立ち、彼の荒れた精神状態を表していた。
そうして二週間が過ぎた頃、彼はもう一度、少女に会うことを決意した。病室に入る前に、深呼吸を何度もして、震える息を整える。通路を歩く看護師や患者に気を取られつつ、それでも扉に手をかける。すると、意志を持つかのように勝手に開いた。反対側から女性が開けたのだった。
彼は姉の存在など知る由もなく、その女性を見舞いだと勘違いして、軽く頭を下げながら「どうも」と呟いた。二人はすれ違うとき、お互いの顔をのぞき見た。
姉はドアを閉める。彼はそのまま少女の元へ歩いていく。
すると、彼に気付いた少女が予想以上の喜びの声を上げた。
(あっ、おにいちゃん! 来てくれたんだ、うれしい)
彼は不器用な笑顔しかできなかった。胸のあたりが疼いた。
(ねえねえ、おにいちゃん。あたしげんきだからしんぱいしないでね)
(う、うん)
それから大したことも、大したことも言えずに、彼は扉に手をかけた。外には先ほどの姉が長椅子に座っていた。彼は女性にお辞儀をしたあと、病院を逃げるように出た。
彼は思った。確かによいものではなかったが、予想していた以上の圧迫感は和らいだ、と。事の重さは重大だと思っていたが、彼の心は多少なりとも軽くなったような気がした。
そして、三日後、少女が退院だということを聞いていたので、病院に出掛けることにした。途中、花屋で奮発して前より大きい花束を買った。少女が喜ぶ顔が浮かんだ。
しかし、彼が病院の入口に着こうとした頃、入口で車椅子に座っている少女を見つけた。その横に何人かの人が付き添っている。彼は呆然としたあと、笑顔の少女を見ると改めて胸が痛くなった。
少女が病院の入り口からいなくなったあと、見送りに着ていた看護師に彼は訪ねた。すると、単純に言えば、脳の両足を動かす神経が機能しなくなったということらしい。彼はお辞儀をして、その看護師が中に入って行く様子を薄らと見ていた。
そして、彼は唇を噛んだ。持っていた花束はくちゃくちゃになり、花弁がゆっくりと地面に散った。彼はその花束を燃えるゴミの中に突っ込んで、その場を去った。
それからというもの、彼はずっとその罪を背負いながら生きて来た。もちろん、父の教えである寺の生き方も学んだ。だが、彼の罪が彼自身を厳しい人間へと変えてしまった。特に人との付き合いに関しては大きく影響してしまった。
(自分は知らないうちに人を傷つける)
彼の心の底にその概念は根付いてしまい、それからというもの人と深く関わることを避け続け、自らの世界に閉じこもるようになった。
〆 〆 〆
女性はもう一度、しっかりとした口調で言う。
「事故だったのよ。あれは事故。日下部、それ気にしてたんでしょ」
「なんで君が知ってるんだ」
「だって、あれはわたしの妹だもん。――病院に見舞いに来たじゃない? それからずっと知っているよ」
「ああ……あのとき、いたのは君だったのか……それで」
「妹は、あれは事故だったって。自分がつまずいたんだって――」
「ウソだ」
彼は立ち上がって叫んだ。その目には怒りが浮かんでいる。
「……」
「あれは、俺が突き飛ばしたんだ。俺なんだよ。俺が悪かったんだ」
「でも、けっきょく、妹も元気に治ったし――」
「下半身麻痺でかっ」
女性は黙ってしまった。
「俺があそこで無理して捕まえようとしなけりゃ、あの子はああならずに済んだんだ」
日下部は、女性に背中を見せながら語る。
「ときどき、見るんだ。通りで車椅子に乗っている人。それを見るだけで背筋が凍るような気持ちになる。それで頭の中で声がするんだ。『この人もあの子もみんなお前がやったんだ』って。違うっていつも俺は言う。けれど、最後に『うん』と答えてしまう。だって、けっきょく、俺があの子を傷つけたんだ。それは変わらない事実だ」
「なんで、なんで日下部が悩むの? あれは事故だったって妹が言ってるのに、どうして自分の殻に閉じこもるの。どうして自分を許せないの?」
「君にはわからない」
「わからないよ。なんで日下部はそんなに勘違いをしてるの……わからないよ」
女性は、にじんできた涙を拭った。
それから、彼女はふいに空を見上げた。そこには二羽のスズメが喧嘩をしながら飛んでいる。石段下には少年少女のかけ声が聴こえてくる。
それから女性は冷静な顔つきでしゃがむ。
そして、日下部の手を、ゆっくりと握った。
「……」
「……多分ね、わたし、思うんだ。日下部はずっとそれを心の中にしまってて、誰にも言えなくて、ずっと苦しかったと思うんだ。悪いのは自分だって、ずっと思っていて……だから、急にあれが事故だったなんて言われても受け入れられないよね。――ゴメン。わたし、ちょっと無神経だったかも……」
彼は首を横に振ってその場で泣き出した。女性に手を握られたまま膝をついて、号泣していた。
女性は握っていた左手を解き、優しく彼の頭をなでた。まるで小さな子供、あの頃の日下部だった。
彼女は少年を胸元に引き寄せた。彼はそれに抵抗するこくなく、ずっと泣き続け、声にならない声で訴える。
「すぐに助けられなかったんだっ」
「うんうん」
「助けようと思った。でも、できなかったんだ。僕は、僕は……」
「いいんだよ、大丈夫。誰も君を責めたりしないよ」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
あの日、少女を傷つけたと思って、ベッドで泣いていたときの彼の姿そのものだった。
「もう、自分を傷つけないで。君が傷つけていたのは自分なんだよ。……大丈夫。もう大丈夫だから。それ以上、傷つけないで」
彼は喉がかれるまで泣いた。途中、女性にハンカチをもらって涙を拭った。
「ねえ、妹に会ってよ。きっと、君に会うのを楽しみにしてるから」
「うん」
「約束だよ」
「うん、約束」
幼い頃の彼と女性の指は約束を交わした。そして、次第に彼もまた心の中の罪悪感が薄まり、元の自分に戻っていくようだった。
「……ごめん、ありがとう。君のおかげだよ」
「ううん、いいの。苦しんでいる日下部を見るのは嫌だったから」
彼は立ち上がり、ハンカチをポケットに入れた。
「次、返すよ」
「うちに来たときね」
日が傾いてきた。ずいぶんと長い時間ここにいたような気がする二人であった。周りの木々は依然として変わりなくそびえ立ち、二人を眺めていた。
彼はカバンの中で潰れていた紙飛行機をなでた。折れて曲がってしまった線を整えて、それを寺の方へと投げたが、すぐに落ちてしまった。
それを見ていた彼女は落ちて傾いた紙飛行機を拾って、一度、息を吹きかける。そして寺の軒下でしっかりと折り直す。屈んだ彼女の後ろには彼が立っていて、夕日を反射する長髪を眺めていた。
「できたっ」
彼女はそう言うと、石段の方へと歩き出した。
彼はその様子を見ながら、
「ねぇ、美陽、それをどうするのさ?」
それを聴いた彼女は驚きながら「やっと、名前、呼んでくれたね」と微笑んだ。
「ごめん……」
「いいの――これはね、ここから飛ばすのよ、見ていて」
美陽は勢いよく紙飛行機を投げた。坂の上から見渡した街の景色に、紙飛行機は溶けていく。途中から、気流に乗ったかのように、空高く飛んで海の方まで浮かんでいった。
「綺麗だな……いままで、気付かなかった」
「これから、いままでの償いの分まで青春を謳歌しようよ」
「償いか。事故なら、俺は誰に償いをしたんだろ」
「さあね」
女性は彼を石段へと引っ張る。
「おい転ぶだろ。ここは危ないんだから」
「ふふふ。ごめん、ごめん。お互い様」
二人の姿は夕日に溶けていった。