【雑記ノート】(おまけコーナーを作成中!)

2011年12月5日月曜日

『末期癌』著:葵夏葉


   末期癌
             葵夏葉

 俺は商店街を自転車で漕いでいた。
 そこは人々の喧騒とは無縁の、活発な蝉時雨以外にはなにも聴こえない場所で、昔から俺には庭のような所だった。
 今日は久しぶりに出掛けることになったので、外用の服を着ていた。
 通りは人の姿が(まば)らで寂しい感じもしたが、いまの俺にとっては、それでよかったのかもしれない。
 人の目を気にしながら、毎年、訪れている宝石屋と洋服屋に行った。宝石屋では、
「ご結婚ですか?」とにこやかに訊かれたので、「いえ、結婚記念日です」と答えた。そうすると、カウンターの女性は白銀色のイヤリングを提案してくれた。だいぶ値段は高かったが、想像してみると()()()にぴったりだった。
 俺は直ぐ様それを買うことに決めた。
 洋服屋では、俺がカウンターにカゴを置くと、店員が不審な顔をしたので、
「ああ、これ、妻へのプレゼントです」と遠慮深く笑うことにした。そうすると、店員の()しげな顔は緩んだように見えた。
 俺はそれらを大切に持って、自転車で自宅まで帰った。
 玄関を開けて「ただいま」と言うと、
「おかえり」と、見えない姿の代わりに優しい声が聴こえてくる。その直後、ベッドの(きし)む音が聴こえた。きっと、起き上がろうとしたのだろう。
「いーよ、いーよ。寝てろ。まだ本調子じゃないんだから」
 ほんの少しだけ声を張り上げて、それでも柔らかな口調で言おうと気を配る。同時に、玄関で靴を脱ぎ捨てると、鈍い音が狭い部屋に響いた。そのボロボロの靴は、ここのアパートと同じ色をしていた。
「そう……?」
「それより、千恵子、プレゼントがあるんだ」
 俺は袋の中身から服を取り出した。
「え、なに? ……それってワンピース?」
 千恵子は一瞬なにが起きたのかわからなかったようだが、喜んでいるような驚きと直後の柔らかな声が俺を安心させる。買ったのは間違っていなかった。
「ああ、いろんなのを買ってきた。レース使用のとか、タンガリー風の物とか」
 それでも、恥ずかしい気持ちからか、視線を下からゆっくりと上げながら続けた。
「……嫌だったかな」
「ううん……。うれしい。でも恥ずかしくなかった?」
「ちょっとね。でも別に君のために買うんだから平気だったよ」
「そっか……ありがと。早速着るね」
「自分で着られるか?」
「うん、今日は、大丈夫だと思う」
「じゃあ、俺、シャワー浴びてるからさ、その間に着替えてて」
「うん、わかった」
 お風呂場の扉を開けるとき、俺は心配して振り向いた。最近、千恵子は食欲も少なく、体力も落ちた。自分で服も着られないときさえある。出会った頃の彼女は、町内をマラソンするのが日課で、俺も何度か付き合ったが、朝早く起きるのは苦手で、途中、自分だけサボってしまった。一緒に走れなくて残念だったが、それでも元気に「行ってきます!」と玄関を出る千恵子を見られるのは幸せだった。
 だからこそ、最近の彼女を見ていると心配してしまう。けれど、今日の千恵子なら大丈夫だろう。何度も体調を崩すのは、多分、前の後遺症なのだから。
 俺は汗まみれの身体を、いつもより温度を下げた冷たい水で洗う。それは刺激的だったが、涼しくなるどころか、むしろ、凍えるほど身体中が寒くなってしまった。
 俺は改めて顔を洗ったあと、洗面所に用意していた着替えを着る。
 そうして、部屋に戻ると、輪郭のぼやけた彼女が、かわいい笑顔でそこに立っている。しかし、そのままじっと見ていると、輪郭はしっかりとしてきた。
「ね、かわいい?」
 そこにはベージュのワンピースを着た千恵子が立っていた。両手を後ろで組んで、わずかに首を傾ける。少し細くなった身体が、出会ったばかりの彼女を思い出させるが、どこか無理をしているようにも見える。
 それでも、千恵子が笑ったときに見せる白い歯は、並びもよくて光沢があり、本当に綺麗だと思う。真ん中で揃えられた長髪は優雅で、一重の優しい瞳を見ていると、こちらも照れてしまう。
「すっごく」
 やや驚いたふうに俺は答えた。すると、千恵子は少し俯いたあと、にっこりと笑った。そして、ベッドへとゆっくり歩き、座る。そのあいだ、俺の視点は彼女を探すようにして移っていく。
 千恵子が歩く度に、床の色は古びて、掃除などしていないかのようにほこりが溜まる。次第に、それは部屋全体にも及び、空気が変わった。
 戸棚の上には、二人の記念写真が置いてある。けれども、それは変わっていく部屋の雰囲気と共に増えていき、何十個にも達したけれど、それぞれは短い期間の中で撮ったものだ。――確か、千恵子が急にいろいろなところに行きたいと言い出したことを思い出す。
 不思議だったが、それは楽しかった。
「……うれしいな。ありがと、買ってきてくれて。それに今日が二人にとって大切な日だってこと、覚えててくれたんだもの。それもうれしい……」
 ベッドに寝ている千恵子の耳には、銀白色のイヤリングがわずかに陰を作って光っていた。彼女は大切に袋の中身を広げて、それらをしっかりとつかむ。それから周りを見渡した。ベッドの周りには、水々しいたくさんの花々があった。特に千恵子を包んでいたのは、桃色の薔薇である。
「そりゃあ、俺とお前の結婚記念日を忘れるわけないだろ? もう何年もずっと続けてるんだから」
「……うん。ありがと。なんかうれしいね。頭ではわかっていても、すっごくうれしい」
「よかった。君がいっとき、体調を崩して倒れたあと、どうなるかと思ったよ。医者はなんでもないって言ったんだよな? よくなるんだよな?」
「うん、そう。……ごめんね。もう大丈夫だから。もうずっとあなたと一緒。これからもずっと」
 嬉しかったのだろうか。千恵子は泣いていた。息がつまってしまうほどに長く。
「そうだな」
 俺はそう呟きながら、視線のやり所に困って、横を向いて照れていた。すると、視線の向こうに彼女の等身大ほどの、大きな鏡を見つけた。そう言えば、彼女はいつもあの鏡の前に立っていた。
 誘われるようにして、俺は自然とそこへと足を運ぶ。千恵子がいつも立っていた場所。そこが一番彼女を感じられると思えた。
 俺は千恵子を探すようにして鏡をのぞき込む。
 すると、そこには、ベージュのワンピースを着て、銀白色のイヤリングを付けた人間が立っていた。ワンピースは新品で、イヤリングは鋭く光っている。
 俺はその場にしゃがみ込み、思わず震える身体をよそに、千恵子の名前を連呼しながら空白の身体を包み込んだ。
 鏡には泣いている俺の姿だけが、はっきりと見えていた。

1 件のコメント:

  1. 輪郭がぼやけた~や、そこが一番彼女を感じられる~などの記述から、これは全部夫の妄想で幻だったということですか?
    だとしたら、1人残された夫は相当気の毒に思います。仮にもし自分が本当に愛していた人が死んだら、気持ちをどこにぶつければいいのかわからず、同じようなことをしてもおかしくないと思うので共感します
    ただ、タイトルが末期癌なので、もしかしたら今本当に闘病中なのかもしれないのかなとも思いました

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