【雑記ノート】(おまけコーナーを作成中!)

2011年11月13日日曜日

『赤と白』 著者:葵夏葉


   赤と白
           葵夏葉


 天気予報は、来週まで晴れが続くと言っていた。わたしはそんなこと信じたくなかった。晴れは好きだけれど、決めつけようとするところが嫌いだった。わからないことはわからなくていいと思ってしまう。近い将来のことなんて、どうでもよく思えた。きっと、それはわたしが前を向きたくないからだと思う。

 カーテンの外から聴こえてくる蝉時雨で、わたしは目を覚ました。蝉は決まった時間に一斉に鳴くのだと、去年の自由研究で同級生の男の子が発表していた。そのことにわたしは驚いたけれど、いまとなってはどうでもいいことだった。
 頭が叩かれたようにずきずきと痛み、まぶたが垂れて重い。
 先週から夏休みに入ったから、よく寝る方だったわたしから考えれば、とっくに八時を過ぎていてもおかしくないのに、今日は五時に目が覚めた。
 起き上がろうと布団を払い、ベッドから足を下ろすと、ふらついた。思った以上に自分の身体が軽い。それはどこか体の中が空っぽになったような感じだった。
 わたしは、乱れた髪の毛のまま、寝巻き姿で部屋の扉を開け、階段を降りて洗面所に向かった。それは習慣となっていて、考えずに動いていた。
 階段を降りたと同時に、なにか音が聴こえた。その音を確かめようとしたけれど、足はそのままお風呂場へと向かう。実際、音はその中から聴こえていた。お風呂場なので、ばちゃばちゃと水を弾く音がする。
 洗面所はお風呂場の前にあって、そのお風呂場には中からカギをかけられるようにもなっている。だから、顔を洗っている最中に後ろで音がするのはよくあることだし、勝手に中には入れない。でも別に入る必要もないから、わたしは中にいるときでしかカギのことを考えない。
 けれど、今日はなぜかそのお風呂場の扉が半開きになっていた。そしてその中から音がしている。
 わたしは家族の誰かがカギをし忘れて、シャワーを浴びたり、お風呂に入っているのだと思った。
「お父さん? お母さん? ()()?」
 続け様に名前を呼んでみたけれど、返事がない。聴こえていないのかと思って、わたしは扉を開けた。
 けれど、そこには家族がひとりもいなかった。それなのに、まだ水の音がする。でも、シャワーからは水が出ていないし、蛇口からも水は流れていない。だから、浴槽の中を見てみた。そうしたら、浴槽の中になにかがいた。
 それは大きなものもいたし、小さなものもいた。喩えるのなら、それは魚だった。それなら魚と言ってしまえばいいのだけれど、それは魚みたいでも魚ではなかった。
 うごめくその数百匹は浴槽を半分ほど満たして、少ない水を奪い合うようにひしめき合っている。
 いつからそこにいるのかもわからないし、誰が連れて来たのかもわらなかった。しばらくのあいだ、わたしは呆然としていた。体も動かせずに、頭の中でどうしたらよいのかを考えていた。
 わたしは何個も疑問を感じたけれど、その魚のようなものが残り少ない水を奪い合う姿を止めたかったし、苦しそうにエラを動かしているのを見ると、とにかく彼らに水をあげたかった。途中で淡水魚なのかを考えたりもしたけれど、そのまま流すことにした。
 実際に水道の蛇口をひねると、そこからドロドロと赤い液体が流れてきた。わたしはびっくりして、すぐに蛇口を閉めた。その液体はぬるっとしていて、触ってみると時間の経った血のようだった。
 わたしが驚いている間に、魚たちは赤い液体を浴びて跳ね返り、お互いの身体を叩き始めた。その瞬間、突然、大きな魚が弾けたと思ったら、その衝撃で他の魚たちも弾けていった。でも、中身は空っぽで、見た目が本物みたいだったのが嘘のようだった。
 それは喩えるのなら風船だった。青と黒が混ざった、飛ぶことのできない風船。
 わたしの頬には、魚の目玉が飛び散る代わりに、ドロッとした液体がくっ付いた。ひんやりと冷たいその液体は、わたしを恐怖させるのに十分だったけれど、かすかに鼻の先をなでる甘い香りと、どこか懐かしい色がわたしに興味を持たせた。多分それは、絵本の中に出てくる未開の地を探る探検家のように、危険だと知りながらもどこかそれに惹かれるのと、ちょっと似ている気がする。
 わたしは意を決して、頬の液体をなめてみた。すると、甘い味が口の中いっぱいに広がった。それは、祭りで水飴をなめたときと同じ味だった。
「甘い……」
 わけのわからない気味悪さに驚いて、いまにもおかしくなりそうだった頭が、一気にファンタジーの世界に染まり出した。
「甘い!」
 わたしは大急ぎで梨央に教えてあげようと、お風呂場をすぐに出て、梨央の部屋、つまり母の部屋へと向かった。そのとき、廊下に置いてある受話器が鳴った。わたしはとっさにそれに出たけれど、内容はあまり覚えていない。むしろ、受話器を置いた瞬間に忘れてしまった。ただ、病院からだということだけは覚えている。けれど、出なければよかったと、後悔した気持ちが残った。
 それでも、またどこからか奇妙な興奮があふれてきて、もっと梨央に話したい気持ちが大きくなった。
 わたしは、部屋の扉に手をかける前から梨央の名前を呼んでいた。開けたあとも、何度もその名前を呼んだ。そう広くない部屋にわたしの声だけが響いていた。梨央が遊んでいた、赤い積み木のブロックを踏みそうになってよろける。手をついた先には台所の扉があった。それはちょうど倒れる勢いで開いた。
「どうしたの、朝からそんな頓狂な声を出して」
「梨央は」
「さあ、近所の子と遊びに行ったんじゃない?」
 母はそれ以上にその話題に乗り気ではなかった。今日はなにを食べるかとか、夕ご飯はなにがいいだとかを訊いてきた。わたしはそれを答える前に先ほど見た状況を語ることにした。けれど、母は信じようとせず、ただ笑っていた。
()()ったら、小学校五年生にもなってなに言ってるのよ」
 わたしがいくら反論しても母は取り合ってくれなかった。それどころか、パプリカを切っていた手を休め、わたしにジョンの散歩をしなさいと言う。ジョンとは、先週から飼うことになったウェルシュコーギーのこと。
「亜衣が飼いたいって言うから買ってあげたのよ。しっかり面倒みてあげなさい」
 なぜか、いままで持っていた心の中の不思議さが現実一色に染まってしまった。わたしは母の言動に多少ながらがっかりし、吐息をもらすように「はぁい」と呟いた。
 わたしはしょんぼりとお風呂場へと歩いた。すると、浴槽には先ほどのひしめき合っていた魚たちも、飛び散った魚の欠片すら綺麗になくなっていた。ただ、そこには透明な水が浴槽を半分ほど満たしているだけで、蛇口を回してみても、いつもと変わらない水道水が流れた。実際に触ってみても、先ほどのような手触りはなく、ただ虚しいほどに冷たかった。
 わたしは錯覚を見たのかと思い、目を疑った。けれど、その直後に口に手を当てて、味覚も疑わなくてはいけなかった。あれは確かに甘かった。とろけるように甘い水飴だった。
 そのあと、わたしは洗面台で顔を洗い、乱れた髪を整えた。それほど長い髪ではないので、そう長くはかからなかった。けれど、そのとき見た自分の顔は酷く疲れきっていて、いまにも倒れそうだった。
 歯ブラシを口の中に入れると、歯茎(はぐき)から血が流れた。急いでわたしは水でそれを洗い流し、その場をあとにした。
 台所に戻る途中、また電話が鳴った。わたしはゆっくりと受話器を握り、ゆっくりと耳元に寄せた。たった数秒だった。吐き捨てるように深い息を吐いたあと、受話器を置いた。
 台所に戻ると、母はいなかった。代わりに父が椅子に座っていた。
「ねぇ、お父さん。お母さんは?」
「さぁ、わからん。散歩にでも行ったんだろ」
 父は赤のゴルフ雑誌を読みながら冷静に呟いた。
 わたしは母がいなくなって寂しくなった流しへと向かう。すると、流しには大量の真っ赤なパプリカが散らばっていた。わたしは気味が悪かったので、触らずにそれをそのまま放置することにした。
 テーブルの中央には三つの蜜柑が置かれてある。わたしの目からはどれも腐っているとしか見えなかったけれど、父が食べている間だけは、新鮮な色を見せていた。
 父は食べながら、
「明日、遊園地に行くからな。寝坊したら置いて行くぞ」と言った。
 父は、有言実行をする人だった。けれど、わたしが本当に寝坊しても置いて行くことはしない。そんな家族には優しい父だ。どちらかと言うと、機転を利かして、わたしを置いて近くまでドライブをして来て、目覚めたわたしをちょっとだけ不安にさせてから帰ってくる。そして抱きつきたくなるような柔らかな笑顔で、
「さあ、行くぞ」とか言うに決まっている。
 わたしは父の言葉を聴きつつ、いったん自分の部屋へと戻ろうと、階段をあがった。古びた材木が(きし)む度に、父の言葉が脳裏をかすめる。
 重力に負けそうになる身体をなんとか押し戻し、何度も壁に触れる肩を、強く握り締めた。何日も変えていない靴下が滑りながらも、どうにかわたしは部屋へとたどり着いた。
 そして、殺伐とした部屋に幻滅して、そのまま背中から倒れるようにしてベッドに仰向けになった。お腹は減っていたけれど、食べる気分ではなかった。簡素な天井がまぶたをゆっくりと落とさせた。

〆 〆 〆

 目が覚めたときには、右の窓から茜色の光が差し込んでいて、部屋の中に光と影を作っていた。
 天女の衣のようなカーテンは、多少も揺れることなく、わたしを哀れむように見つめてたたずんでいると、そのときわたしは思った。そして枕を投げてやろうと思ったけれど、全身に力が入らず、そのまま何十分も呆然としていた。
 机には終わっていない夏休みの宿題があったけれど、気にせず階段を降りた。どうせ、やっても虚しいだけだと知っていたから。
 一階は真っ暗だった。わたしが電気を点けると、今朝となにも変わらない景色が目に映った。そのとき、またあの電話が鳴った。わたしはそれを無視することにした。ずいぶん、長く鳴っていたようだけれど、ついにいつともなく聴こえなくなった。
 誰もいないのか、わたしが点けたところ以外は真っ暗で、居間に置いてあるソファーも寂しそうにその場にあった。
 台所に行って電気を点けてみると、まだ流しには赤いパプリカが散乱しているし、テーブルには赤いゴルフ雑誌が倒れている。
 となりにある母の部屋へと扉を開け、電気を点ける。そこには今朝、わたしが踏みつけそうになった赤い積み木がばらばらに崩れていた。
 わたしはこの家が空っぽになったと思った。ただ、静けさだけがわたしを包んでいた。むしろ、その静かすぎる音で耳鳴りがしてくる。先ほどまで忘れていた頭痛がどんどんと激しくなって、それに連れて胸の鼓動も大きくなっていく。
 わたしはその場でうずくまってしまった。

〆 〆 〆

 ずいぶんと長く呆然としていたせいか、いまが何時なのかわからなかった。そんなとき、暗い玄関の方からなにか聴こえたような気がした。
〝ピンポーン〟というような音。
 わたしは、はいずり回るようにして廊下へと出た。玄関の暗闇が不気味に揺れている。もしかすると、あの扉の向こうには悪魔がいるのではないかと思った。悪魔がわたしをさらいに来たのだ。
 そう思うと、わたしは近くに置いてあったステンレスの棒を自然とつかんでいた。
「すみませ~~ん」
 人間の声がする。しかも、男性の声。けれど、まだわたしには悪魔が人間のフリをしているとしか思えなかった。
 玄関のカギを開け、わたしは真っ先に飛びかかった。ステンレスの棒が空中で音を鳴らす。
 突然のことに悪魔は驚き、すぐに身を交わしたあと、「なにをするんだ!」と叫んだ。
「このアクマめ。今度はわたしをさらいに来たな」
 わたしがそう言うと、郵便局の格好をした悪魔はわたしを軽蔑するかのように、にらめつけて、乗ってきたバイクで去っていった。
 わたしは嬉しくなった。悪魔は逃げたのだ。わたしが追い払った。わたしが、わたしが、わたしが……。
 なぜだろう。嬉しいはずなのに、泣いてしまった。その場で屈み込んで、かれた声が胸を突き刺す。わたしはふと横を向いた。そこにはなにもいない犬小屋があった。
 わたしは屈んだまま何十分かそこにいた。家の前を通り過ぎる人たちが、わたしを変な目で見ては去っていった。
 なにも考えずに、鉄の塊のような身体を立たせる。そのとき最も激しく頭痛がした。脇の下は隙間だらけで、服の間を通り過ぎる風が痛く冷たかった。
 わたしは意を決して家を離れようとした。けれど、そのとき、なにかを踏んでしまった。紙が潰れるような音だった。見ると、それは先ほど悪魔が落としていった物で、何枚か重なっており、広告なども散らばっている。もう、わたしには関係のない公共的なものの字面が連なっていた。中には〝生命保険〟という文字や交通事故死者四名と大々的に記されていた。
 わたしはその紙を放置し、本当に家を離れることにした。

〆 〆 〆

 わたしはずいぶん歩いただろうか。閉店した店のかすかな明かりや街灯さえ心細い光を放ち、それを見る度に景色が歪み、身体が言うことをきかないけれど、いまでもよく遊んでいる公園までは来れたようだ。それほど大きくはないけれど、他と比べると外灯が何個も円を描くようにしてあって、不思議なところだった。
 わたしはそこでいつもブランコに乗る。今日もその調子で、入口をまたぎ、大きな砂利音をなでるようにしてそこへと座った。そして同時に真っ赤なブランコはキーキーと音を立て、わたしの身体を簡単に揺らした。
 公園には桜の木が植えてあって、ちょうど咲き誇っていた。季節を考えれば、もうとっくに散っているはずなのに、確かにわたしにはそう見えた。まるで花びらが真っ赤に染まっているように見えた。綺麗だった。わたしがいままで見たものの中で一番、綺麗だった。
 しばらく揺れる中でわたしはうとうとしてしまい、いつの間にか眠ってしまった。気持ちよかった。もう頭痛もしないし、身体も重くない。吐き気もなければ、悲しくもない。ただただ、気持ちよかった。


〆 〆 〆

 わたしが目を覚ましたあと、父と母と梨央、それにジョンが公園の前で待っていたことは、もう誰にも言えないことだけれど、それでも、わたしは喜んで、真っ白い家族の元へ走っていった。

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