『バイク・煎餅・幽霊』
超自然的な我が心
葵夏葉
昇り始めた太陽が、新宿駅の屋根を弱々しく照らしていた。時間に関係なく、あふれ返る人込みの中には、外套を着る者もいる。
そんな中、頭部にわずかながら、白色を帯びた人間が、駅のホームに立っていた。年齢は容姿に相応しく、先程会社に辞職願いの封筒を出して来たばかりなのである。それは、常々彼が考えていた事の一つだった。
「……さあ、どうしたものかな」
駅のホームに立ち尽くす男、竹正の釈然としない心中には、かすかに謎めいた故郷への執着があった。それが一体何を指すものなのか。その手掛りを得ようと、再び記憶と現実を行き来するのである。
竹正の脳裏には、ある情景が深遠と刻まれていた。それは、昔育った風景の断片。忘れる事などできるはずがない、そんな思い出の彼方。そして意識的に比べてしまう中国大陸の地。
都会の空気を脱ぎ去るかのように、竹正は幾つもの電車を乗り継いだ。簡素なビル街や妖美なモーテルが、その名残を見せる。
「ここら辺も多くの建物が建ったものだねえぇ」
「そうですねぇ、しばらく見ない間に都会になりましたね」
竹正から見て右斜め方向に、漆塗りの杖を突いた七〇代の男とその妻が、流れる景色に目を細めながら眺めていた。婦人の着ている濃赤の毛糸は温かさを感じるには十分であったが、時が経つに連れて多くなる灰色の曇天が、いかにも熱を冷ましているように見えて竹正は視線をそらしたが、意識的に男の白髭と弱々しい手先を一瞥し、痛々しく感じてしまって彼は身を縮めた。
腕時計の針が十一時を指した頃、景色は色を変えて赤や黄色が目立つようになった。開いた向かいの車窓から吹く秋風が、中の温度を下げるように循環する。鋭い冷たさを含んだ北風は、竹正の身体を震わせた。彼は、疎らになった向かいの席へと歩き、窓を閉めた。ここまで来ると、大分人の数も乏しくなるのである。
古めかしい私鉄に乗り変えると、急激に故郷の色が強くなった。赤い住宅屋根が増えて、視界を埋める建物が減っていく。どこか物足りなさを彷彿させる枯れ木の背景には、天辺から流れるように白い山岳が見えている。 ――瞬きをする間に視界は暗がりに覆われた。トンネルに入ったのである。その途端に、竹正はもやもやとした感情を覚えて、胸中にあるわだかまりを詮索し始めた。心の淵に置き去りにした、過去の自分自身への仕返しなのか。はたまた、知って尚忘れているのか。疑問は尽きない、と彼は思っている。
何時間もの乗車は体力を消耗させる。しかし、時折、扉がガチャリと開くと、外からわずかな掠れ音がやんわりと聴こえ、彼の耳を撫でる。それは、細くざわめく、幾つかに分かれ出た梢が、哀愁の調べを奏でている音である。その音響が耳元を駆け巡り、かつての故郷の地を思い出さんとする。
竹正は思った。故郷の地を、これから斜めに差し込む夕日が照らすと想像すると、どこか温かみがあるが、そこから冷えていくと思うと、寂しい気持ちになる。そこで彼は、「自分にとって故郷とはなんなのか」と、反芻し始める。しかし、一向に答えのようなモノは出て来る気配がない。彼の瞳は、今ある故郷を捉えようと真剣な色を呈していた。
――――――――――
人気のない駅舎に降り立つと、自分の背丈よりも高いモノが山しかないのではないかと思念するくらいに、辺りは平らに広がっていた。疎らに散らばる人家が思いの外心細い。車輪とレールの摩擦音が右耳を滑るようにして去っていく。寂れているのは、レールの匂いだろうか。――分からない。
ここで重要なのは、時間だと感じる。例えば、現在の時間と過去の時間を比べてみる。何をするにも時計の針を見ていた東京時代とは、限りなく相違が溢れんばかりに放出されていた。一日一日の時間の経ち方は場所によって異なっている。相対性理論からすれば当然なのだが、私の場合それを肌で実感した。とてもゆっくりと流転しているのである。
少し歩いてみよう。
私の記憶では、町と町との間には架橋があり、その橋下には太くも短い橋脚が立っている。そこを境にゆっくりと大らかに揺らぐ波が風流を感じさせていた。そして、夜になると、道端の人家に光が灯り、それが野川の水に映るのである。その様を、観光客が欄干の擬宝珠の横に手を当てながら、
「あら、いいわね。これはずっと見ていても飽きないわ」と言う。そして三分もしない間に身を縮めて歩き出す。冬の架橋は寂しいものである。
ただ、夏も中頃になると、温泉宿に泊まった客が浴衣を着て橋涼みする光景が目立つ。そんな趣きのある所の近辺で花火をするものだから、その時分は大いに賑わった。私も小さい頃から両親や恋人とそれを見物して来たが、自分が東京にいる間にこの伝統はなくなったらしい。理由は言わずもがな、経費と観光客による収入との反比例である、と地元に残った友人は言っていた。
世間一般的に急激な増加を呈した大手のショッピングモールは、各地に拡がるようにして蔓延り、物質主義への一端を思わせる象徴と化していた。その証拠に、多くの専業主婦の間では、「あらら、もうフッ素加工が剥がれたわ。また新しいのを買わないとね」と、言いながら、まだ使えるフライパンを捨てるのである。それが架橋の袂を桃のように浮遊しているなどと想像すると虚しいものである。
そして、そのような市場では、銘柄に品のある装飾が売れる。しかしここでは、目紛しい発展もなければ、目に付く建造物もない。あるとすれば名もない古寺と、効果の不確かな温泉があるだけだ。
私は、視界の向こう側で走り去る軽トラックの発する音に耳を傾けながら目を閉じて、想いに耽る。消え行く故郷の姿と、住んでいた東京との差を、頭の中で陳列してみるのだ。
この地は、スクランブル交差点に群がる大衆の代わりに、大空を駆け巡る鷹であったり、悠々自適に地面を這う月輪熊であったりするモノが、視界を通して容易に映る。
アスファルトの代わりに砂利の混じった道路が優しく声をかけ、高くそびえ立つ高層ビルの代わりに、大地を包み込む大木の如く、貴い存在が身近な所にある。
――自然焉んぞ人間に劣らんや。
自然は人工的に作られた仮想空間よりも、実質的に価値のある芸術作品である。また、人間が脅かすには到底立場を弁えなくてはならないものである。何故なら、自然は人間にとって必要不可欠なものだから。
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ふらりと訪れた昔日の思い出を、現代と重ねたその眼差しには確かに、あの日の青年実業家のモノが見受けられ、早々と旅立った青年の感傷を如実に表していた。
彼は故郷を懐かしむのと同時に、過去の自分を客観的に考え始めた。
自らの連綿と続く将来を見据え、夢と理想に活気付き、立ちはだかる壁にも屈せず、走り続けた若き頃。どんな事にも積極的で、時には傍若無人に相手を罵り、時には先代の知恵をズル賢く掌中に収める事もあった。それが悪いとも思わず、何かを信じて生きて来た。それが竹正であって、多くの人間に共通する事である。
信じた先に見えたモノが何物であったのか、故郷に漂う哀愁は何を語っているのか、――疑問の想いを足に込め、その土を踏む。
竹正は静かに自然を感じていた。手の甲を掠める真新しい風の感触。また、鼻先にやや香る草木の匂い。それは正に、野原に咲く淡紅紫色のフジバカマであったり、青紫色のキキョウであったりした。 ――辺りは列植された木々が立ち並び、あらゆる者達を見下している。
町外れの水田には稲が刈り取られ、藁小屋には多くの藁塚があった。 ――この地方では藁箒やら、藁草履と言った藁細工を職業とする人もいるほど、ある面では有名な所であった。が、多くの人達には広く認知されていない。主として使われるのが藁である為なのか、関心を持つには至らないのだろう。伝統工業は現在廃れつつあった。その結果、細々と製作されていると言う現実である。
夏になると青蛙が一斉に合唱を始める、多くの水田を背にして住宅地に歩くと、寂しい広場を見付けた。円形に作られた広場は昔と変わりなく、ひっそりと存在していたが、子供の時分と比べると、いかにも小さく、幾らか高台に盛り上がっている所に見える。昔、そこは古代縄文時代から残る遺跡のようだったが、今はもう、ただの幽霊か廃墟としてその場にあり続けるだけであり、閑散とした雰囲気は滅びゆく心の末期を漂わせているように、彼は感じた。
円周回りに三つ、錆色のベンチがあり、一番入口に近いベンチの側に一つ、ぽつりと人影が存在していた。ベージュ色の外套を着ているのか、枯葉が集まる背景に溶け込んでいる。そこで佇んでいたのは、知らず知らずの内に、竹正が記憶の中から抹消した、あの慶応大学時代の朋友だった。
彼に対する過去の記憶を探れば、きっと逞しいその姿が浮かんだはずだ。しかし、斯も情けないとばかりに肩を縮こまらせている様は、いかにも隠居をした老耄に見えた。
彼の依然変わらない、前方に突出する顎以外は、肌全体の潤いが枯渇するほど乾燥した顔立ちや、細く弱々しくなった身体が変化の色を伺わせ、竹正の視界を埋めた。そして、竹正は改めて何かを悟ったかのように彼を見渡し、自身が彼と理解するに至った過程を不思議に思った。
――――――――――
以前とは調子の違う雰囲気や容姿を何故、私が見分ける事が出来たのだろうか。しかし、そんな事を考えていても仕方がない。現に、彼が数歩先にいると言うのであれば、声を掛ける事が自然であろう。
私は偶然の意を表して、彼に驚きの相を浮かばせてみた。が、彼は一瞬だけ目を大きく見開いた後、また萎んだ夜の含羞草のようになった。そして、ポケットから一枚の煎餅を取り出し、噛み切れない音を発した。その時の指はより小さく、皺が縮んで見えた。
「久しぶりだね。 ――どうしてこんな辺鄙な所にいるんだい?」
彼は黙ったままだった。斯く言う私も彼の予想以上の暗澹に、話す言葉もなく黙ってしまった。
彼――生野――と私は同じように異国の血をその身に含みながらも、実の所、そこの匂いすら嗅いだ事がない。私は単に機会がなかっただけだが、生野は父親の遊興によって生まれた事を根に持っていると聴いた事があり、どこか毛嫌いしているようなのである。
生野は幼い頃から天分に恵まれ、学事に関しては神童とさえ呼ばれていた。私が把握している所によれば、彼の学生時代は繁栄極まりない学績を残したはずである。彼は卒業して大手企業の幹部となり、その社長の娘と結婚したと、何十年か前に、久しく集まった同窓会で耳にした事があった。
佇む生野の姿は呆然で、ただただベンチを眺めているようにも見える。一見すると、妻子を持つ身としての、彼のあるべき態度や身の熟しは崩れ、今は元来ぞんざいな私にでさえ劣っている。
彼は返事をする際に此方を向いたが、その仕草はゆっくりとしていて、また興味のないものが目の前にあるような、そんな彼の弛んだ目や落ちた眉毛が、私であって私ではないモノを見ていた。
「お前は、何故ここに来たんだ……?」
彼はベンチに腰掛け、改まったようにそう呟いた。その時、結局生野が食べ切る事の出来なかった煎餅が、虚しい音を立てて、地面に転がった。しかし、彼は一向に気にしていない風だった。
「わからない。けれど、偶然立ち寄りたかった」
「……そうか」
砂埃の混じった道路に、金色の藁が風に乗せられて漂う。周囲の音は自然が奏でる侘しさで満たされていたが、時折通り掛かるマフラーの壊れたような音をする原付きが、故郷の懐かしさと、寂しさを増大させた。
「お前は〝月下美人〟と言う花を知っているか……?」
私は知らないと言うと、彼はそうかと静かに俯いて、
「あれは夏の夜咲いて、夜のうちに萎むんだ」と、どんよりとした目付きを地面に投げ掛けながら言った。
私は彼が言わんとしている意図が読み取れないまま、適当な返事をしてしまう。
「そりゃあ、寂しい花だねぇ」
「ああ。――だが、それは美し過ぎた。俺なんかちっぽけな存在だと、改めて思い知らされた」
生野は身体を捻って、全身から吐息を吐くと、青ざめた顔を全面に出し、ベンチを立った。目先は既に焦点を失い、ふらふらと身体を揺らした後、すたすたと砂利混じりの道路を西方へと向かって行く。私は彼の行方が心配になり、どこに行くのかと訊いたが、彼は別段返事をする事なく、ただただその屍は肩を震わせながらすすり泣いた。
生野は川の音の鳴る方へと向かっていった。その時、私は彼に、末期の水の香りを嗅いだ気がした。
――私は彼が歩いていくのを止める事が出来なかった、止めようとは思った、がしかし、それも手遅れと思ったのか、それとも、自分の生と死が不安になったのだろうか。
分からない。
足元には、あったはずの煎餅がなくなっていた。