一 はじめに
現在、日本国内どの書店に赴いても、数多の小説が本棚に陳列している。その事実を、多くの読者は疑問に思わないだろう。それは昔日から断続的に、文学としての小説が日常生活において、身近な段階までに浸透して来たからである。とは言え、現在の状態を再認識する為には、過去の形跡を追う事もまた文学を知る上で重要な作業であり、各個人の知的な財産となろう。
以下の文を踏まえて、日本の文学的形態を陳述するに至り、私見こそあれど、一八六〇年代に興った明治維新にその起源があると考えられ、それを始まりとする所である。しかし、ここでは明治維新についてのより詳しい内容は避け、あくまでも、その背景について述べる事から始めよう。
二 明治維新とその背景
明治維新とは、読者の周知の如く、江戸幕府の倒幕運動に始まり、明治政府による天皇親政体制の転換とそれに伴う一連の改革とされているが、実の所、確かな開始時期と終了時期がはっきりとされていない。それは、目紛しい文明開化と西洋文明の吸収が背後関係にあるからである。しかし、一八六七年一〇月一四日、将軍慶喜が大政奉還を申し出、事実上政権を朝廷に返上した日から、明治維新の始まりと言ってもよいのではないだろうか。
政府は新しい知識や技術を学ぶため、欧米に留学生を送り出し、また多くの外国人を雇入れた(御雇外国人)。廃藩置県直後の一八七一年十一月には、特命全権大使の右大臣岩倉具視以下四八人の岩倉遣外使節団を欧米に派遣した。使節団の目的は、条約改正の予備交渉をするとともに、各国の法律・制度・財政・産業・教育などを視察して、日本の近代化、富国強兵化をはかることであった。
(『高校日本史B』
平成二一年発行)
幕末を舞台にした時代劇である『鞍馬天狗』の台詞、「日本の夜明けは近い」からも分かる通り、この時点で既に中央集権化を遂げ帝国主義の時代に移行し、海外に多くの植民地を持っていた欧米列強に比べ、日本は井の中の蛙であった(『読むだけですっきり頭に入る
日本史』
二〇〇六年発行)。
この時期を題材とした小説としては、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』(文春文庫)などが名高い。歴史・時代小説の舞台になるには相応しい作品である。
前述にもある通り、富国強兵の流れが明治維新の波となって、多くの庶民に反映した。例えば、家屋のレンガ造りや牛肉の松田が建築され、街路樹にガス灯まで設置し、元来の〝ちょんまげ〟から〝ざんぎり頭〟へ変える者も出て来る。他にも、裾が出たワイシャツやシルクハット、洋傘などが出回った。魯文は『安愚楽鍋』の中で、「牛肉食わねば開化不進奴」と記述している。他にも、当時の『新聞雑誌 第二十号』(明治4年発行)には「半髪頭ヲタヽイテミレバ、因循姑息ノ音ガスル、総髪頭ヲタヽイテミレバ王政復古ノ音ガスル、ジャンギリ頭ヲタヽイテミレバ文明開化ノ音ガスル」と書かれた文章があり、またその歌が流行した。それほど、海外からの衝撃が強かったと言える。因みに半髪は(注1)を、総髪は(注2)を、ジャンガリは(注3)を参考にして欲しい。
そういう背景だったから、日本の翻訳問題は、要するに一九世紀なかば、ペリー艦隊来航のころから日露戦争まで、あるいは、明治政府が計画的に「近代化」に乗り出してから日露戦争まで、相手が休んでいるあいだに、こっちは急いで……(加藤周一)
最小限度のことはやる、それで近代国家をつくる。(丸山真男)
(『翻訳と日本の近代』
一九九八)
そこで、翻訳問題へと焦点は移っていく訳だが、もう少し背景について述べると、中国・イギリスとの日本の対照関係で見えて来る。例えば、中国は言わずもがな、歴史が古く著名な聖人・偉人を多数輩出している。客観的に見れば、学ぶべき点が多いはずである。確かに、日本は以前遣唐使、遣隋使などを整備して、中国の文化・文明を学びに派遣していた事はあった。そして、一八世紀の終わりまで対外関係は続いていたが、江戸時代に入ってからの鎖国が影響してか、劇的に中国人の渡来が乏しくなった。つまり、隣国であるにも関わらず学ばない中国と日本との関係が出来てしまったのである。しかし、反対に、鎖国とは言え、長崎からオランダとの交流もあった。その当時は既に航海術が発達していたので、船で来る事は可能であったが、多大な時間を必要としていた。
そして、特に日本の中国離れを強くしたのは、中国がイギリスに敗戦したアヘン戦争である。この際、中国には「中華意識」が根強かった為、それほど大きさ問題にならなかったが、日本にとっては大変な事であった。その為、日本人の学びの先となったが西洋なのである。
三 翻訳と福沢諭吉
明治期の重要人物として福沢諭吉がいる。彼はアジアではなく、西洋に学ぶべきだと言う方向性を『学問のすゝめ』などの書籍を通じて明確に示したのである。その結果、内容は当時の日本人にとって行く末を定めるものとなった。
ここでは特に重要だと考えられた『学問のすゝめ』から考察する。初編は一八七二年(明治五年)に発売され、海賊版も含めると二十二万部、一八七六年に第十七編で完結するまでに発行された行部数は、計三百四十万部に達したと言う。そんな当時としては、桁外れの大ベストセラーを記録した。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」から始まる有名な文章は、多くの人々の周知の如くである。これは、人は平等に生まれてはいるが、学問を修めない人間は愚昧なままにとどまると述べて、学問を推奨する。さらに、かつての漢字・和字の「ただむつかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作る」と言う教養主義を批判し、実学こそが学問だと宣言する。
福沢諭吉が考える、西洋人に行うには困難かつ日本人だからこそできる事とは何か。日本人が西洋の文化・文明を学習するのは利点があると、丸山真男から述べられる福沢諭吉の論理は次の通りである。
西洋人が西洋文明のなかで文明を論じることにくらべて、日本人が文明論を書くことは「始造」と言っていいほど非常に困難な仕事だ、だけど同時に、西洋人は何百年前の封建制のことを一生懸命文献にあたってしらべなければいけないけれども、われわれは二〇年ぐらい前は純然たる封建の人民であって、その生活を前半生で経験している。後半生はいちおう西洋と接触し、西洋文明を学んだ。そういう「一身二生」だから、前半生と後半生を比較すると、文明の性質が非常によくわかる。西洋人がその西洋文明の真っ只中にいて、その「由来」を憶測するよりは、日本人の経験の方がいっそう確実じゃないか、というのです。困難を逆手にとって、かえって自分の問題に経験をもつだけに、有利な点があるという。
(『翻訳と日本の近代』
一九九八)
西川俊作は『無形の独立心』で、『学問のすゝめ』(特に一八七二年に発表されたモノ)は、日本の独立宣言だと言える、と記述している。しかし、リンカーンの行なった政治的な独立宣言とは焦点も異なるが、鎖国から脱した日本が向かうべき文明開化への指針を示したと言える。福沢諭吉の掲げる「脱亜入欧」をスローガンとして、以前から中国に対しての翻訳主義が一気に西洋へと花開いたのである。ここで幾つか『学問のすゝめ』から文章を抜粋していこう。
何れも西洋の翻訳書を取調べ、大抵の事は日本の仮名にて用を便じ、或は年少にんして文才ある者へは横文字をも読ませ、一科一学も実事を押え、その事に就き、その物に従い、近く物事の道理を求て今日の用を達すべきなり。
(『学問のすゝめ』
福沢諭吉
編集小室正紀・西川俊作
慶應義塾大学出版)
彼、福沢諭吉の示唆する所を斎藤孝が『現代語訳
学問のすゝめ』で訳した所を参考にすると、こうした学問をする際には、西洋の翻訳書を調べて、大体の事は漢語を使わないで出来るだけ優しい言葉にするべきであり、若くして学問の才能のある者には西洋の原文を読ませる。それぞれの学問の事実を押さえた上で、物事の性質を客観的に見極め、物事の道理をつかまえて、今現在必要な目的を達成すべきである、となる。
当時の翻訳書は印象とは異なり、実際は大量とは言わずとも、少なからず世間に行き渡っていた。しかし、翻訳書が読める人が少なかったと言うのが、翻訳書の拡大性に対する一番の理由ではないだろうか。例えば、安岡章太郎が言うには、福沢諭吉とその思想的弟子である植木枝盛の相違点は、福沢は外国の本を原書で読んでいたけれども、植木は外国語が読めないので翻訳書を読んだと言う。幾ら翻訳書が広まっていたからと言っても、当時の知識人の誰もが読めたと言う考えは行き過ぎているのである。その証拠となるに相応しいのは、矢野文雄が執筆した『訳書読法』にある。これについて引用文を紹介しよう。
明治一六年(一八八三)、報知社というところから出ていて、旧版「明治文化全集」の『外国文化編』にあります。これはじつにおもしろい。識語に、「方今、訳書出版の盛んなるや、その数幾万巻、啻に汗牛充棟のみならざるなり」とある。つまり、翻訳洪水なんだな。みんな翻訳に溺れている。現代と同じなんだ。翻訳が幾万巻というのはオーバーにしても、すでに翻訳文化の時代だった。そういう状況を前提にしてこの本ができている。
(『翻訳と日本の近代』
一九九八)
丸山真男は『翻訳と日本の近代』で翻訳書は歴史書が多いと述べている。確かに、相手国を知る上で重要なのは歴史である。特に、この時代は戦争が度々起こっており、他国を無視出来ないのと同時に、よくも悪くも他国を知ると言う事が重視されたのである。加藤周一が述べるように、単に実用主義に走ったのではなく、言語学的アプローチ、文化地理学的アプローチ、人類学的アプローチの他に、歴史的アプローチが伝統的に一番強かったのではないか、と言う点である。これは具体的に、中国の儒者の思想であると考察し、日本はそれを学んだ事によって、歴史的な観点を重んじるようになったのだが、文化・文明の観点が中国から西洋へと移ると、日本人の歴史的な関心が乏しくなってしまったと、彼は述べている。
中国の儒者と言えば、時に、孔子を思い浮かべる人もいるだろう。福沢諭吉は、『論語』について「孔子様」と語る所が最初にあるのだが、これは皮肉張った意趣を除いてだが、発展途上国に対しての罵声と比較すれば、大きな非難はしていない。この事から、福沢諭吉が孔子の学問的な探究心を認めていたと言えるのではないだろうか。しかし、『論語』もまたその時代の書物に合わせたモノなので、そのまま鵜呑みにしてはいけない、と彼は述懐している。
福沢は、欧米に伍して日本の文明開化を進めていくには、まず日本の独立の維持が何よりも必要だと考えた。そして、その独立とは政府が専制的に主導することでは達成できず、むしろ日本人ひとりひとりが独立の気概をもって産業をおこし、経済を活発にし、学問をつづけていくことで初めて可能になるとした。福沢がいう「立国は私なり」とは、そのことにほかならない。国の独立は「公に非ざるなり」。
しかし、もう一方では、民が無軌道に活力を発揮しても、国は強く豊かになることはないとも考えていた。「私」が放縦に流れてしまえば、「公」は危うくなるのではないか。もし、国がいまだ成熟せず、民の活力を十分に生かしきれないときは、まず秩序を重んじて維持しつつ民の活性化をはかるべきだ――それこそが福沢の考えであった。(中略)さらに井上は、福沢の『帝室論』がやはりイギリス風だとして激しく攻撃している。福沢はこの書のなかで皇室を政治抗争の外におき、イギリス風の「君臨すとも統治せず」にすべきだと論じていた。※井上毅
(『福沢諭吉の精神』
一九九七)
以上の事から、福沢諭吉がアジア圏を激しく批判し、西欧におけるヨーロッパの文明または欧米の文明を強く肯定している事が分かる。参考資料不足ではあるが、『帝室論』から予測するに、彼は特にイギリスに傾倒していたようである。「君臨すとも統治せず」は当時、イギリスの政治状態と一致した精神であり、彼の念頭にあり続けていたのである。
福沢諭吉の『学問のすゝめ』を契機として、多くの文人達が文学の見本を西欧から読み取っていく。そうした流れの基礎がこの時点で出来上がったと言えよう。
四 坪内逍遥
改めて文学の起源を調べるなどの作業がない限り、彼のような文人の名は意外と挙がって来ない。しかし、混乱期の近代と翻訳主義との二つの条件を内包している人物として、改めて重要視されるべきである。彼について、ここで少しばかり述べていきたい。
坪内逍遥は、一八五九年、現在の岐阜県太田市に当たる、美濃国賀茂郡太田村に生まれた。本名を雄蔵と言った。父の坪内平之進は当時四七歳であり、太田の陣屋(代官所)に仕えていた。極めて几帳面で厳格な性格であったそうである。対して母ミチは三九歳で、根っからの芝居好きであったらしい。
私は此太田の陣屋、半出来の城塞めいた此陣屋の、方五丁の二方面だけを高さ二間余の高石垣で囲繞した別郭内で生れた。さうして、其別郭内で育てられて、駅の者や付近の村々の人々とは全く隔離されて、十歳の暮まで過した。
(『少年時代に観た歌舞伎の追憶』
大九・一二、日本演芸合資会社出版部)
父が代官所を辞めた後、一家は名古屋近郊の笹島村に移った。不安定な情勢も重なってか、刀剣の稽古が盛んであった。しかし、そんな時にも関わらず、名古屋の「大惣」と言う資本屋の本を数一千種以上も読み漁ったと言う。大惣は逍遙にとって芸術の本地であり、「心の故郷」であったと、後に彼は回想している。(『坪内逍遥 文人の世界』
一九九八)
私はこの事実が真実かどうかを疑うより以前に、読んだ本全ての内容を覚える事は出来ないと言う事を前提に置いて考えるので、逍遙は若い頃に多くの本を読了したのだと、そう認識するばかりであるが、一体どんな種の本を読了したのかまでは、分からなかった。しかし、数一千以上となると、分野問わずに読了したと言えるだろう。そこで、逍遙は基本的な教養を学んだと考える所である。
明治十年(一八七七)開成学校は東京大学となり、逍遙は大学予備門から翌明治十一年に大学本科文学部政治科に進学した。当時は文学部に政治科があり、英文学や欧米文学は全く付随的な学科に過ぎなかった。
逍遙は大学時代「極楽トンボ」であり、「通り一遍の聴講をしてゐただけで、どの教師からも是ぞといふ感銘を受けたこともなかつた」と回想している。
(『坪内逍遥 文人の世界』
一九九八)
左記の事実は文人坪内逍遥の印象とはまた違った、大学生としての坪内逍遥がいる事に気が付くだろう。彼も現代と同じく、講義に一生懸命になれなかった学生の中の一人なのである。
明治九年(一八七六)、開成学校(現・東京大学)に入学して寄宿舎生となる。大学の課業中、特に有益であったのはホートンの「英文学」シェイクスピア講義であった。(『「職業」の発見
―転職の時代のために―』
二〇〇九)
『坪内逍遥 文人の世界』によると、やがて明治一三年に、サー・ウォルター・スコット作『ラムアムーアの新婦』の一部を翻訳し、『春風情話』と題して世に出したと言う。これが逍遙二〇歳の処女出版である。その後、高田半峰と分担してスコットの『湖上の美人』の翻訳を試みている。
翻訳への一歩を逍遙が踏み出した貴重な作品である。幾ら英語が達者だとしても、当時二〇歳の大学生がやるとしては、大いに難解な作業になったのではないだろうか。共同作業で行なっているのがその証拠である。
シェイクスピアの「ハムレット」の試験に王妃ガーツルードのキャラクタへの解剖を命ぜられ、初めの時には其意味が解りかね、「性格を評せよ」といふのだからと、主として道義評をして、わるい点をつけられ、それに懲りて、図書館を漁り、はじめて西洋小説の評論を読み出した。
(「回想漫談」 『早稲田大学』 大一四・七)
実際、この反省から『小説神髄』へと構想を練ったと考えられるのだが、このような奮起を私は以前他にも聴いた事がある。しかし、筆者のうる覚え故に、詳しくは記載しないでおこう。
実際、この芸術に対する陶酔感も相まって、明治一四年(本科三年)の学年試験でフェノロサの「政治学」に不合格となって落第してしまう。事実上、政府の給費資格がなくなり、大学の寄宿舎を出ていかねばならず、神田猿楽町に下宿する事になってしまった。寄席、落語、遊廓通いに熱心になり過ぎた事も思い当たったに違いない。この間、家族にも不運が見舞っていて、長兄の妻の死ののち、長兄自身が中風に倒れ(一一年)、一三年には母を失い、父が十五年に亡くなっている。(『「職業」の発見
―転職の時代のために―』
二〇〇九)
これが影響して坪内逍遥は近代の基礎を作っていくのである。
注解
(注1) 近世、頭髪の前半分を剃り、後ろ半
分だけ残しておくこと。また、そう
した頭(三省堂
大辞林)。
(注2) 月代を剃らず、伸ばした髪の毛全部
を頭頂で束ねて結ったもの。
近世、主に儒者・医者や山伏などが
結った髪形(三省堂・大辞林)
(注3) 明治初期、散髪脱刀令以降流行した
男の髪形。髷を結わずに髪を短く切
り西洋風にしたもの(三省堂
大辞
林)。上から、半髪・総髪・ざんぎり
髪、となっている。(出所 『新詳日
本史』 二〇〇六年発行 浜島書店)
(注4) 写本・刊本などで、本文の前または
あとに、その本の来歴や書写の年月・
氏名などを記したもの。しご。(三省
堂 大辞林)
引用文献
『高校日本史B』
宮原武夫・石山久男
ほか一五名 実教出版
平成二一年一月発行
『読むだけですっきり頭に入る
日本史』
後藤武士
宝島社
二〇〇六年十一月発行
『翻訳と日本の近代』
丸山真男・加藤周一
岩波新書
一九九八年十月発行
『福沢諭吉の精神』
加藤寛
PHP研究所
一九九七年
『坪内逍遥 文人の世界』
植田重雄
恒文社
一九九七年六月発行
関係略年表
1840年 アヘン戦争はじまる(~42年).南京条
約により,上海など5港を開港し,香港
を割譲.
53年 ペリー,浦賀に来航.クリミア戦争はじ
まる(~56年).
54年 ペリー,ふたたび来航.日米和親条約締
結.
56年 アロー号事件により,第2次アヘン戦争
(アロー戦争)はじまる(~60).
58年 日米修好通商条約調印.
60年 咸臨丸,アメリカに向けて品川沖を出発.
61年 南北戦争はじまる(~65年).
62年 生麦事件おきる.
63年 薩英戦争.下関で,長州藩が外国艦を砲
撃.
64年 4国連合艦隊,下関を攻撃.
68年 王政復古クーデタ(明治維新).戊辰戦争
はじまる(~69年).
70年 普仏戦争はじまる(~71年).
71年 廃藩置県.岩倉具視を全権とする欧米視
察団,横浜を出発.
77年 西南戦争.
89年 大日本帝国憲法発布.
94年 日清戦争はじまる(~95).
95年 三国干渉.
1902年 日英同盟締結.
04年 日露戦争はじまる(~05年).
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図1 関係略年表
関係略年表
1840年 アヘン戦争はじまる(~42年).南京条
約により,上海など5港を開港し,香港
を割譲.
53年 ペリー,浦賀に来航.クリミア戦争はじ
まる(~56年).
54年 ペリー,ふたたび来航.日米和親条約締
結.
56年 アロー号事件により,第2次アヘン戦争
(アロー戦争)はじまる(~60).
58年 日米修好通商条約調印.
60年 咸臨丸,アメリカに向けて品川沖を出発.
61年 南北戦争はじまる(~65年).
62年 生麦事件おきる.
63年 薩英戦争.下関で,長州藩が外国艦を砲
撃.
64年 4国連合艦隊,下関を攻撃.
68年 王政復古クーデタ(明治維新).戊辰戦争
はじまる(~69年).
70年 普仏戦争はじまる(~71年).
71年 廃藩置県.岩倉具視を全権とする欧米視
察団,横浜を出発.
77年 西南戦争.
89年 大日本帝国憲法発布.
94年 日清戦争はじまる(~95).
95年 三国干渉.
1902年 日英同盟締結.
04年 日露戦争はじまる(~05年).
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(出所)『翻訳と日本の近代』 岩波新書
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