『暴走ポテトの秘密』
葵夏葉
私があの焼き芋屋を見掛けたのは、つい三ヶ月前のことだった。
その日は朝早くに妻と一緒に目が覚めて、軽めの朝食を摂った。それからひとりで公園へと散歩に出掛けたが、平日ということもあって人は少なかった。その代わり、街路樹に留まった小鳥は歌うように鳴き、すべり台で遊ぶ子供の声が呑気な日常の一ページを思わせた。
何気ない空間に癒され、なんとなく私はベンチに座って目を閉じていた。秋空の陽光はほんのりと温かく、髪の毛の薄い頭部も気にならないほどだった。
そうして時刻が午前九時になろうとした、そのときである。遠くの方からなにやら拡声器による音声が聴こえてきた。それは次第に大きくなり、聞き取れるほどの大きさにまでなってくると、いままで会話をしていた主婦たちや子供らが立ち止まり、振り返った。彼らの視線を追うように、私も自然と音のする方を向く。すると、住宅街を矢のように走り去る車をそのとき見掛けたのである。それがあとになって焼き芋屋であったことを、その移動販売車から流れている音声が教えてくれた。――イシヤキイモと発せられた言葉は文字通り焼き芋屋を示すものに違いなかったが、聴き取ってから認識するまでの間に、その焼き芋屋は走り去ってしまったのである。そのときから、私の中でこの焼き芋屋に対して若干の訝しさが生まれていた。
焼き芋屋はどうして売らずに走り去ってしまうのだろうか、と。
ただし、その一方で、当初の私は安易な心持ちで「この日はたまたま売らずに走り去ったのだろう」と自己完結していた。――が、日に日に焼き芋を買えない人たちが出始めてくると、これは単なる焼き芋屋ではないと不審感を抱かざるを得なかった。しかし、具体的にそれがなにを意味するのか、誰ひとりとして理解できる者はいなかったし、日々の忙しない暮らしの中でそのような疑問に時間を費やすほどの浪費家はいなかったのだ。
もちろん、それは私を除いての話である。
では一体なぜ、私がこのような些細な出来事に首を突っ込むのかと言われれば、簡単に一言で言い表すことができる。
――小学二年生の孫がこの焼き芋屋に興味を持ち始めたのだ。
子供の好奇心とは、ときにどうでもいいようなことに向いてしまうことがある。私が少年だった頃のことを思い出しても、いまでは到底気にもしないような出来事に夢中になったものである。
「ねぇ、おじいちゃん。どうしてやきいもが買えないの」
「ねぇ、おじいちゃん。どうしてやきいも屋さんは行っちゃうの」
孫は無邪気な瞳を私に向けながら質問してくる。答えないのも不親切であるし、そのうえ子供の頃は誰しもが疑問に思うことが一つや二つあるものだ。
例えば、「どうして空は青いの」や「どうして地球は丸いの」などの厄介な質問がある。どうにか子供の持っている知識に合わせて納得できる言い分を考える必要があるが、これは非常に大変な労力でもある。これが一度や二度なら許せる範囲だが、毎日のように言われてみると、だいぶ疲れが溜まってしまうものだ。
現に、孫の母親である陽子さんは、この謎の焼き芋屋に対しての質問には真っ向から無視を続けているというのであるから、苦労は計り知れない。――そんな陽子さんに相反するように、私はどうにかしてこの孫の疑問に答えるべきだという使命感に燃えていた。
しかし、いざ考えてみても当てのない問いであったことをつくづくと思い知らされた。これは実際、焼き芋屋に接触しなければ判断し兼ねる問題である。
だが、たったひとつだけ私が自信を持って言えるのは「あの焼き芋屋の目的は焼き芋を売ることではなく、別にある」ということである。それがなんなのかはいまだ不明だが――
とにかく、部屋にいる孫の様子でも見に行こう。
時刻は朝の九時前。そろそろ、あの謎の焼き芋屋が家の前を通る時間だろう。昨日、一昨日と来なかったので、今日は来る可能性が高いと予想していた。
すると、案の定、イシヤキイモと鳴り響かせながら、右から左へと音が流れていく。家の中にいてもしっかりと耳に残る確かな音だ。一度目に音の発信源を特定しようとするが、二度目に聴いたときにはすでに離れた場所に移っている。
噂をすれば影が射すとはこのことである。正当な営業を行わないあたり、仕事に不真面目な人間かとも思わせるが、奇妙なことに週に三回の割合は一定していて、そのどれも九時前に集中している。そのことを考慮すると、営業時間には厳しい性格なのだろうか。それとも、早めに終わらせて帰りたいだけの人間なのか。
謎は謎を呼ぶと言うが真実が見えてこない。
それにしても、孫の姿が見えないのだが、どこにいるのだろう。
「健太――」と声を掛けてみる。しかし、返事がない。
私は孫の部屋を覗いてみたあと、家の中をぐるぐると回って歩いてみたが、けっきょく見つからず、どうしたのかと不安になっていると、「おじいちゃん、今日も暴走ポテト捕まらなかったよ」と健太が玄関の扉を開けて現れた。私たち二人の間では、あの焼き芋屋だけを暴走ポテトと呼ぶことにしていた。名付けたのは孫の方で、中々のセンスのある名前ではないかと思う。――確かにあの車は暴走している。誰が停められるというのだろう。
「そうか、そうか。外に出ていたのか。それで今日もあの焼き芋屋は停まらなかったわけだな」
「うん、だから、ちょっとがっかりしちゃった」
うつむいて気落ちしている孫を見ていると、ついつい気の毒に思ってしまう。というのも、健太は焼き芋が大好きなのだ。そうしてもう少し厳密に言うならば、焼き芋屋で売っている焼き芋が好きなのである。それも寒々とした外で食べる温かい焼き芋は格別美味しいらしい。なんとなくそれは私も知っていた。――だからこそ、私は健太に焼き芋を食べてもらいたいのである。
毎年、肌寒い季節が近づいてくると、健太はワクワクするのだと言う。
そんな孫を見るのは、私としても幸せだった。
ある日の朝、近くに引っ越してきたという田中さんと我が家の陽子さんは些細な世間話をしていた。話は盛り上がり、二人とも穏やかな気持ちになっていた、その矢先、時刻はちょうど朝の九時前に差し掛かろうとしていた。
この日も暴走ポテトは西の彼方から走ってきた。初めは小さな音も、段々と近づいていくに連れて大きくなっていく。
すると、田中さんの息子が急に家の玄関から飛び出して、道路の真ん中に立ったという。陽子さんはそのとき知らなかったが、あとで聴いたところによると、すでにその息子は一度暴走ポテトを停め損なったらしく、今度は是が非でも停まらせてみせると意気込んでいたそうである。
しかし、暴走ポテトは子供が道路の真ん中で手を広げていても、「焼き芋屋さ――ん」と叫んでいても、最初だけ速度を落としただけであり、あとは間近になると道の端に沿って進んで難なく障害を越えてしまった。あとに残った三人は思わず唖然として、小さくなっていく車の後ろ姿を眺めていたそうである。
「――それにしても、あの焼き芋屋さんはどうして停まってくれないのかしら」と、息子を叱ったあとに田中さんが言う。
「さあ……」と半ば怒りさえも湧き起こる隙間さえないほどに、陽子さんも思いのほか不思議に思っていた。しかし、この近所どこで訊いても同じような返答ばかりである。
「誰が乗っているのか見ようにも、ちょうど朝日が反射して見えないのよ……」
しかし、今回、田中さんの息子は暴走ポテトが端にそれるまで車と真正面で向き合っていたのだから男女の区別はできたはずである。
「ねぇ、そう言えば、誰が乗っていたか見えた? やっぱり、怖い男の人かしら……」と陽子さんが訊いた。
「女の人だったよ――」と少年は悪びれずに答えた。
その情報は瞬く間に近所中に広まった。どうでもいいと聞く耳を持たない人も多かったが、買おうとして失敗した人たちなのだろうか、眉間に皺を寄せて暴走ポテトの悪口を影で言っていた。
「女性だなんて信じられます、奥さん」
「いいえ、信じられませんわ」
「全く、最近の若者は、これだから困りますわ」
私は全く根拠のない意見に反発する気にもなれなかったが、今回の件に関しては暴走ポテト側に情状酌量の余地はないように思えた。事実を事実として捉えるのなら、近所の人たちは迷惑を被っている被害者とも言えるからだ。
しかし、このまま問題を放置しておけば、近所迷惑の度を越えて周辺の平安を乱しかねない。風が吹けば桶屋が儲かるという具合に、我が家にもお門違いの怒りが舞い込んでくるかもしれない。
「ああ、どうしたものか」と私が机に頬杖をつきながらため息をついていると、後ろで健太が頼り甲斐のある確かな声で「僕に任せてよ」と言った。それに気付いて振り返ると、彼は満面の笑顔で立っている。
この子に任せてよいのだろうか。いや、任せてはいけない。
「健太、大丈夫だよ、おじいちゃんがなんとかするからね」
続けて優しい口調で「これは大人の事情だからね」などと諭すようにも言ってみるが、孫はあまりこの道理を理解していないようで「うん、大丈夫。僕がなんとかするよ」と言って聴かなかった。
最初はそれが不安だったけれども、よくよく考えてもみれば、この子にできることと言ったら、お使いくらいなものだった。それすらまだ危ういかもしれない。そんな子に一体なにができるのだろう。私は思わず心配しすぎた自分を嘲笑した。――それから割合に天気のよい日だったために、部屋の窓を少しだけ開けて、冬枯れの暮れかかる夕日に心を奪われながら一句詠むことにした。
孫のため 石焼き芋を 買いたいな
要は買うことができれば、それでいいのである。そのような結論に達し、自分は少しその場で横になることにした。
しばらくすると、廊下から伝わってくる肌寒い風が脇の下をすうっと通り抜けた。無意識のうちに寒いと思い、身体を縮こまらせて背中に掛けてあった毛布を顔のあたりまで被せた。しかし、毛布など被せた覚えがなかったので、ふと、はっきりとしない意識のまま身体を起こすと、思いのほか部屋は暗く、障子を通して見ることのできる外の景色もいまでは夜闇が忍びつつあった。
それで自分が先ほどまで寝ていたことに気が付いた。
薄暗い中、壁に掛けられた柱時計を見てみると、時刻は夕方の五時半だったが、最近は日没が早いため、もう外は暗かったのだ。
「アナタ、起きましたか」と廊下から歩いてきた妻が言った。
「ああ」と私はまだぼんやりとした頭で答えた。
部屋の窓が閉まっている。毛布が掛けられている。これは全て妻のおかげなのだと察した。ありがたい。しかし、そう言えば、健太はどうしたのだろう。姿が見えないが――
「健太はいるか」
「先ほど私が帰ってきたときには隅から隅まで家中暗くて、誰もいないようでしたわ」
「部屋で寝ているのかもしれないな」と私は言いつつ起き上がった。
「アナタがご存知だと思っていましたが」
妻は電気を点けた。二人のあいだに、わずかな緊張が走った。
「いいや、私も知らないうちに寝ていた」
妻との会話を切り上げ、健太のいる部屋へと行ってみることにした。寝ているかもしれないので、そっとドアを開けてみたものの、誰もいなかった。それから台所やリビング、トイレなど見て回ったが、健太はいなかった。
「いないんですか」と妻は不安げに訊いた。
「ああ」と私も妻の声の調子に合わせて頷いた。
「外に遊びに行ったのかもしれませんね」と妻は外を見ながら言った。しかし、健太は小学二年生なのである。男子とは言え、決して活発的な方ではなく、見慣れない夜道をひとりで歩くことを特別嫌う子であり、近くにいればいいが、もし街の迷路に踏み入れてしまったら、ひとりでは帰ることができないだろう。妻もこのことは熟知していた。ただ、遊びに行くという軽い気持ちで誰かと一緒にいるのであれば、若干でも安心だからこそ、そう思いたかった気持ちがあったのだろう。それは自分も同じである。私が眠っている間に出掛けたことは間違いないだろうが、そのときはまだ日が出ていた。思い立ったが吉日というのが健太の専売特許であり、焼き芋屋を見つけようと安易に飛び出して行ったのだろう。現に、健太の靴がない。これは私の監督不行き届きが原因だった。
「お前は夕食の準備をしていてくれ。私が健太を探しに行こう」
「分かりました」
表面では冷静を装っても、どこかぎこちない私の動作に妻も不安を隠せなかった様子だった。
私は自分の分と健太の分の上着を持って家を出た。
外は想像していた通り、家の中よりも二度ほど温度が低いのではないかと思われた。横風が吹いているというのも寒さの原因かもしれない。昼間に感じられた暖かさは、もうどこかに行ってしまった。
私は玄関を閉めてから、ふと、立ち止まって考える。
まず、第一の選択は左か右かということだった。家の前の道路はしばらく曲がる小道もなく真っ直ぐに横へと伸びている。左に行けば、近いうちに狭い道へと入り、突き当たるとそこは行き止まりだ。私はいま仕事先から帰ってくる陽子さんにその場所周辺を探してもらうように連絡をした。
一方で、私は右の道を行くことにした。というのも、道に沿って直線に歩いていくと駅に突き当たるのだ。その周辺は人の数も多いし、それになにより車の数が多い。背の低い子供が懐中電灯ひとつない状態で歩いているとすれば、つい最悪の事態を想定してしまう。
健太の性格的に、道端で見掛けたスイセンやカンツバキに見とれて道草を食っていることもあり得るし、なにより健太の歩く速度は大人のそれと比べると、さほど速いものではない。いくら夕方頃に出掛けていたとしても、そう遠くない距離にいることは推測できた。
私は吹いてくる冷たい寒風に反発するように、ひたすら歩いた。
青白い街灯が左右に道なりに並んでいる。十五分ほど歩いたが、特別代わり映えのしない景色ばかりが続く。それと言うのも、このへん一帯の住宅街はこれといってめぼしい建物もなく、淡々と住宅の屋根が並ぶだけという、子供にとっては分かりにくい作りになっているからだ。しかし、だからこそ複雑に入り組んだ碁盤の目のような道に気まぐれで入るようなことがあれば、本当に行方が分からなくなってしまう。
一歩、二歩、三歩と心なしか焦りが生まれて、いつしか競歩のような歩調に変化していたが、しばらくすると息が荒くなり、吐息はいつの間にか白く熱を帯びていた。そうして体全体が熱く火照ってくると、髪の毛の少ない広い額から汗がにじみ出て、打ちつける鼓動が急ごうとする気持ちに拍車を掛ける。
私は疲労し、少しのあいだ街灯下で休むことにした。
握り締めていた皺だらけの手をあけようとするが、動かせない。拳はそのままの形を維持しつつ、痺れてしまったようだ。
先ほど小さな店を通り過ぎたとき、店内には時計が壁に掛けてあった。それを覗き見てみると、探し始めてから三〇分ほど経ったことが分かった。よくよく辺りを見渡してみると、信号機の色合いも目立つようになっている。そろそろ交通量の多い通りだろうか。
寒々とした薄暗い街灯の下を健太が歩いたのなら、きっと寂しさを覚えて泣いてしまっているだろう。こうしてはいられない、そう思い立ち、また歩き始めた。
すると、前方にほのかな橙色の明かりが見える。間違いなく周りの建物とは別物の光である。その場所ならなにか分かるかもしれないと思い、近付いてよく見てみると、空き地に屋台らしき車が停まっていた。しかし、おでん屋ではない。焼鳥屋でもないとすると――などと考えていると、屋台の前にひとつだけぽつんと簡素なパイプ椅子が置かれていた。そうしてそこに座っているのは健太ではないか。後ろ姿でも分かる。
思い掛けぬ光景に自分はハッとした。
「健太」と思わず私は叫んだ。すると、振り返った健太がこちらを向いて走ってきた。言葉を交わす前に私に抱きついてきたこの小さな身体の主は、鼻水を垂らしながら涙も流している。よほど夜の道は怖かったのだろうなと想像できた。
「よしよし」と私は小さな健太の頭を撫でる。
ハンカチで顔を拭いてあげて、自分も健太に負けないくらいに抱きしめる。ああ、健太の匂いがする。一度だって忘れたことのない、健太の匂い。ああ、それは焼き芋の匂いだ。
「あれ……まさか」
私自身もやっと落ち着いてきたのか、いまだ私に抱きついている健太に上着を被せ、屋台を見る。それは紛れもなく、あの焼き芋屋だった。
「ど、どうして焼き芋屋がこんなところに」
「いや――、おたくの息子さん、よく食べるね――こっちも作り甲斐があったってもんだよ、うん」
頭にタオルを巻いた女性が、両手を腰に当てて笑っている。この光景はまさに、いままで望んでいた暴走ポテトの真実ではないか。しかし、いまはあまり積極的に詮索しようと思わない。というのも、健太が無事だったのは、この焼き芋屋のおかげということもあって、その問題に対しては保留という風に頭が判断したのだ。もちろん、元を正せば、と言いたくもなるが、いまはいい。とにかく、無事でよかった。
「健太は、焼き芋が大好きなんですよ」
自分の口から自然と出た言葉はそれだった。昔から健太は焼き芋が大好きで、そのために今回、焼き芋屋さんを停めようと思っていたのだ。
「その子さ――、この焼き芋屋を探して歩いてきたんだってさ。向こう見ずって言うのか、なんと言うのか。だって、今日、ここに停めたのも自動販売機でジュース買おうとして停めただけなんだから」
気さくなこの女性は呆れながらも終始快活な調子でしゃべった。年は若くもありそうだが、かれた声の質はどこか中年層を想像しなくもない。女は付け加えるように「ただ、アタシはそういうヤツは好きだけどね」と笑った。
「よくやったな、健太。偉いぞう」と私は褒めた。
健太はそれを聴いて「えへへ。見つけたよ、おじいちゃん」と顔を上げて、部屋で笑ったときのような満面の笑顔を、いままさに私に見せてくれた。
「うん、ありがとうな、ありがとう」と私はいままで以上に頭を撫でた。それに健太は喜び、空き地に笑いがあふれた。
女性の態度が予想していたよりも軽快だったので、ここはやはり、どうしても私にはこの人に訊いておく必要があると思えてならなかった。なので、軽い気持ちで尋ねてみた。
「どうして焼き芋を買わせてもらえないんですか。私どもの近所では皆さん、とても困っていますよ」
そう私が言うと、女性は急に余所を向いて「いや――、その――」と口を濁しながら「事情がありまして――」と言った。
「どんな事情なんですか。それだけ訊いたら、私どもは帰ります。他言は致しません。ある意味、孫を助けてくれた恩もありますし」
「……分かった」
女性はしばらく言おうか悩んでいたが、吹っ切れたのか、開き直ったのかは判然としないが、堰を切ったようにしゃべり始めた。
「実はさ、おたくの子と同じくらいの年の息子が、トラックと事故っちゃって、医者が全治三ヶ月って言うから毎日病院に通っていたんだけど……アタシ、車を持ってなくてさ。最初は徒歩とかバスでなんとか通えたんだけど、自宅から病院まではけっこう距離も離れているから、そのうち身体は疲れるわ、金はなくなっていくわで、困っていたんだよね。乗せてくれるような知り合いはいないし、入院代だってただじゃない」
女は焼き芋屋の車に視線を向けた。
「何度か病院にはこの車を使わせてもらったかな。もちろん、商売しないのは悪いとか思ったけれど、それは朝だけさ。こうやって、ときどき通った人に売りつければ、一応は仕事になるのよ」
「でも、それなら、最初の入院だけ急げばいい話ですよね」
女は痛い所を突かれたと思ったのか、顔色が一瞬だけこわばった。
「それは……朝は直ぐに会いに行くって約束していたからさ。商売なんかしていたら、時間が遅れちまうだろ、だから」
女はしゃべりながら、焼き芋屋の照明を消していた。
「だとしても、住宅街を猛スピードで走り去るのは危ないですよ」
と私は言いつつ、健太を見て「小さな子供もいるのですから」と付け加えた。
「……確かにね。言われてみれば当然のことだったのかもしれない。それは謝るよ。ごめんなさいね」
彼女は片付ける手を休めて、健太を見つめながら言った。それを見ていた私はなにか彼女にとって大切なことを言ったのかもしれないと思った。
「でも――」と彼女はうつむきながら静かに呟いた。
「でもね、容体が急変して具合が悪くなっているって医者の人が言っていたのに、あの子、アタシが一緒にいるときは元気に笑うんだもの……そんな子を見ているとね、一分でも一秒でも、一緒にいたいって思ったの」
最初は快活な彼女には不似合いなほど小さな声だったが、だいぶ後半になってくると声は大きくなっていった。
「そうでしたか。そのような事情があったとは知らずに、こちらも失礼しました」と私は頭を下げた。
「いや、アタシも自分のことしか見えてなくて、迷惑を掛けたようだから申し訳ない」と彼女も軽く頭を下げた。
邪険に扱えない話だけに、こちらは少し戸惑ってしまったが、同じく子供を持つ身としては共感してしまう。そんな彼女には母親としての愛情を感じた。
「早く退院できるといいですね」
「実はさ、そろそろ退院できるんだよ」と彼女は笑顔で言った。
それから彼女は子供と二人暮らしをしているということやいろいろな仕事をして養育費を賄っていることを話した。
「この商売は楽だね、いや――、ホント。ただ、車は元の場所に戻さなくちゃならないから面倒かな」
世の中にはいろいろな人がいるものだ。それをつくづく実感した。
私たちは彼女と別れ、手を繋ぎながら、星空の下を歩いた。
少しだけ服についた焼き芋の匂いは、忘れない思い出となった。
――そして、もう、暴走ポテトは現れなかった。