『夢見』
葵夏葉
「なあ、俺、面白い夢見たんだぜ」
突然、松永が調子はずれの声を出した。そのハスキーな声は元来小学校から変わらず、ときにそれが彼を老けさせた。そして腕まくりした腕は高校生とは思えないほどに太く、力強い印象を与える。それにも関わらず彼はスポーツを一切行わず、代わりにエレキギターを持ち歩いては所構わず演奏するという趣味を持っていた。後ろで束ねた髪が特徴的である。今日のような休みには、なんの連絡もなしに竹田の家に上がり込み、勝手に熟睡しているのだった。
「はあ?」
松永と比べると細身の竹田は、新刊の流行雑誌を集中して読んでいた最中であった。雑誌の表紙には「今再び蘇る歳時記」と大きく書かれている。竹田はわずかに肩を微動させたあと、何がどうしたという風な口調で返答した。その瞳は冷静さを表面に携えているが、どこかまだ垢抜けない少年の色をしていた。特徴といえば黒縁の眼鏡だろう。松永とは幼馴染みである。
窓外は列植された街路樹が紅く染まり、秋意を感じさせていた。灰色に染まる空は秋の陰りを深くしている。それはどこか不安を募らせる色だった。
「急にどうした、お前。柄でもないな」
竹田は胡座を組んでいた身体を後ろへ向け、松永にゆっくりと疑問を投げ掛けた。
微笑して竹田が言うと、その言葉に対してにやける松永。茶色の長髪が妖しく光る。
「いやな、別に普通の夢なら言わねえよ」
松永は寝ているときも手放さなかったエレキギターの弦を指で四回弾いた。電源プラグが差し込まれていなかったので、空の音調は直ぐに消えた。
「なるほど。ということは、相当面白い夢だったんだな?」
「ああ」
松永は座布団から半分身体を持ち上げ、目玉をくるくると動かしながら、奇妙な笑みを浮かべた。
「なんだよ、気味悪いな。なにを見たんだよ」
竹田は松永の奇行を気にしながらも立ち上がり、雑誌を本棚に戻そうとした。そうして、そろそろ溜まってきた雑誌も捨てなければいけないなと感じていた。その後ろで松永は静かに言う。
「それはな……」
松永は語り始めたと同時に、タンス横の差し込み口に電源プラグを挿し込んだ。その直後、竹田は部屋の異変に気付き始める。
「……? ……おい、地震だ……」
竹田はベージュ色の天井や銀杏黄葉がちらつく窓外を見ながら冷静に言った。最初は机上の筆記用具や白磁ペンダントライトが、わずかに音を立てたり、微動したりするだけだったが、一分もしないうちに大きく揺れ出した。
「地震だ!」
竹田は声を張り上げて言った。松永に注意を促したつもりだったが、先程から彼は立ったままエレキギターを弄っている。竹田はそれに呆れを通り越して憤りを感じた。
「なにやってんだ! 早く机の下に隠れなきゃ!」
竹田は大きな声で叫んだが、以前として松永は聞き耳を持たない。そんな彼に対して、竹田は肩でも叩いてやろうかと考えたが、揺れが段々と大きくなるに連れて、立つことでさえ難しくなってしまった。
「くそっ」
竹田がなんとか体勢を整えようとしていると、松永は突然ギターを弾き始めた。全く揺れに動じない松永は不気味な笑みを浮かべながら、夢中で妖しげな音色を部屋に響かせる。竹田は思わず息を呑んだ。そうして竹田は一体何故、彼は大丈夫なのだろうと思ったが、その四秒後、揺れに耐えられなくなった茶色い天井が歪み出し、少しずつ落ちてきた。割れ目の出来た壁からは、容赦なく秋寒が吹き荒れる。これ以上は生死に関わるほど危険だと思った竹田は、
「危ない!」と声を張り上げたが、その直後、大きな板が落下し彼の視界を遮った。
それから間髪を入れず天井が崩れて、彼らはその下敷きになった。
――一瞬だけ遠くに見えた窓の外には、四匹の蝶が飛んでいた……。
〆 〆 〆
そこで松永は夢から覚めた。
彼はなんともおかしい夢を見たと思って、首を振った。束ねた後ろ髪が左右に揺れる。どうして竹田の家が倒壊したのかと考えて、その直後に苦笑した。現実では起こっていないことも夢なら有り得るのだと、彼は内心そのような夢を嘲笑った。
「馬鹿らしい」
松永は今英語の授業を受けている。語学が苦手な彼にとって、これほど眠気を誘う授業はない。彼には、現在、教壇に立っている化粧の濃い女性が念仏を呟いているのか、それとも、眠気を誘う呪文を唱えているとしか思えなかった。その上、この教師は化粧の乗りがいい日はとても饒舌になる。
You have already passed away.
And you don't awake out of a dream.
However, the only one has a
method to come out of a dream.
It means the collapse of the
dream.
|
はい、そこ寝ない」
机に顔を伏せている学生は注意されたが、一向に起きる気配がない。それでも繰り返し教師は罵声を放っているので、仕方なく左席の松永は寝ている男子の肩を教科書で叩いてやった。すると、叩かれた学生は寝ぼけた顔で、
「あれ? もう授業終わった?」と言ったので、教室中が一斉に笑いの渦になった。
それを聴いていた後ろの生徒が「そう言えば、松永は教師には相手にされてねぇからいつでも寝られていいよなぁ」と言った。
「いいや、逆に何かすればアイツに眼を飛ばされるからな、うぜえ」
その後、教師の耳元に外から甲高い声が届くと、外を見ていた窓際の生徒を指差して「はい、そこ、女子見ない」と注意した。
窓の外を眺めていた生徒は呆れて溜息を吐き、直ぐに弁解しようとしたが、周りが笑い出したので、頬杖を突いて不機嫌な表情のまま黙ってしまった。
四人の女子が昇降口に向かって歩いている。何故なら、体育があったからである。今年は男女共にテニスをすることになっている。
金切り声が響く昇降口とは反対側に、四十四年前の創立以来から植えられている、四本の桜の木が横に並び、散り始めるほどに咲き誇っていた。――生徒は、この桜の花を遠目で眺めていたのである。
松永は窓際の男子が本当は何を見ていたのかを理解していた。自分も寝る前に何度か窓の外を一瞥していたからである。しかし、何か物足りなさに似た、不満のようなものを感じ始めたので、見るのを止めにしたのである。加えて、ずっと外を眺めていれば教師が此方をにらめつけてくるのも予想できていた。
「次、ユカリさん、四ページ目の文頭から」
「はい、
Do you know?
It says that the body is buried under a cherry tree.
I continue sleeping there since before you came.
Your dream is my dream.
The butterfly is flying to the surroundings of a cherry tree.
You will look at and realize it.
It says that this is a dream.」
|
教師と生徒が何やらしゃべっている間に、松永は外の物足りない景色のことを考えていた。もし自分が見落とした箇所があるとするのなら、もう一度よく見る必要がある。窓際の男子が注意されたことで改めて松永はそう思った。
窓際から二番目の列ではあったが、彼はより詳細に景色を捉えようと左側に顔を向けると、左席の女子と目が合った。しかし、松永は気にせず外を眺めると、何かが四つ、空中を飛び交う花弁の上空にゆっくりと漂っていることに気が付いた。
それはシャボン玉だった。四つのシャボン玉が空中を漂っている。鮮やかな虹色をしたそれは桜の花びらを映しながらも流れるように浮かんでいる。いずれその形が尽きるまで辺りを浮遊するのだろうと彼は思った。
ユカリはまだ英文を読み続けていた。終わらない文字を追っていくように、彼女の口調は早まっていく。
「As much as you
are going to escape from "death", "four" numbers press
you.
"The death" wipes out tomorrow, and "the
dream" creates tomorrow.
The memory expresses your existence in itself with a vague
thing.
If memory fades away, you disappear. Of course I in you
disappear, too.
"The soap bubbles are signposts to a cherry tree"」
|
松永はそのシャボン玉が窓の視界から見えなくなるまで、じっくりと眺めていた。時折、彼の行為を気になった左席の女子が「なによ……」と呟きながら睨め付けたが、彼は何も動じなかった。偶然、教師も黒板に何やら長文を書いていたせいか、彼には気付かなかった。そして、彼は先程のシャボン玉のことを考えていたら、いつの間にか自分のことに考えが及んでいた。
こうした日常的な憂鬱に囲まれていると、何も考えていなかった中学生時代の方がよかったと、彼は心の底から思った。だが、中学生の頃にどういったことを感じていたのかは、実の所忘れてしまっているのである。
「今度、松下に行かなきゃな」
松永は軽音楽部に所属している。男子が大半で女子はほんの一握りしかいない。因みに、松下とは松下工房のことであり、東京都内のギター工房を指していた。
昨日は日曜日だったが、彼は丸一日エレキギターを弾いていたので、今日は眠くてしょうがないのである。そうして彼は机に両腕を真っ直ぐに置き、顔を机の表面にくっ付けるようにして背を曲げた。リズムのない授業の音は、電源が入っていないときに弾いたエレキギターの音だと彼は思い、物憂げに呟いた。
「しょうもねえ音……」
大きく欠伸をして目を閉じる。すると、ユカリが最期の行を読んでいた。
「"I’m already all
right".
So I want you to inform my father,
you do not cry when I am fine.」
|
松永は眠気で視界が呆然とする一方で、何か不思議な余韻を感じていた。優雅で品のある声にどことなく悲しさと喜びを抱き、それが耳元に残っていた。白のカーテンが揺れて風が通り過ぎ、空へと上っていった。
松永は静けさの中にある安らぎに満たされ、もう一度その声を聴いてみたいと心から思った。すると――
「ねぇ、今の英文、私が書いたんだよ」
女の子の声がかすかに耳に届く。何かと思い耳を澄ませると、何故だか急に教室内が静かになっていた。松永はどうしたのかと目を開けて顔を上げてみると、今まで授業をしていた英語の教師や仲のよい友だち、そして声の正体もいなかった。しんと静まる教室中どこを探しても、誰一人としてその場にいないのである。それは彼を明らかに嫌な気持ちにさせ、ある恐怖に似た気配を感じさせた。不安と焦燥で混乱し始める頭を整理しつつ、彼は冷静に考えようとするが、その矢先、突然教室の扉が開かれた。そこから黒縁眼鏡の少年、竹田が額に汗を出しながら、
「松永ッ! 早くしろ! あとはお前だけだぞ」と叫んで手招きしている。
松永はなんのことなのかさっぱり分からず、気が動転しながらも竹田の方に歩く。その直後、シンバルのクラッシュ、テレビの砂嵐、工事現場、どれを取ってみても、これほど大きな音はないと言えるくらいに、とてつもない音が松永の後ろでした。そうして、彼らの身体は大きく揺れ、松永が何事かと急いで後ろを振り向くと、教室が何者かによって破壊され、外の景色が丸見えになっていた。松永から見て、数歩先の所で建物が真っ二つに分かれたのである。間一髪という所だったのだろうか、彼は全身の毛が逆立った。――視線下には無残にも粉々になった外周壁や吹き付けタイルがバラバラになっていた。
竹田は、
「最早これまでかッ」と嘆いたあと、しばらくその場で切歯扼腕していた。松永は事情を訊いたが竹田はひたすら首を振り、何やら思案しながら階段を駆け下りていった。
そして、松永は目の前に広がる情報をできるだけ冷静に考えた。四階にいるので外の景色が高く見え、彼の目下にはグラウンドが四方にだだっ広く見えていた。そうして彼の目の前には無視できないほどに大きくて黒いモノが二つ立っていた。太さは人間同士が手を繋いで輪を作ったとしても十二人ほどはあり、それが奇怪であった。心の底から恐怖が溢れて来たのを彼は感じた。
松永はその正体を暴こうと上を見上げた。すると、そこにはスーツ姿の巨人――歴史の教科書で見たことがある、あの独立宣言で有名な大統領リンカーン――が立っていた。ちょうど目の前に見えるのはその巨人の膝の部分だと、彼は理解した。そして今度は松永を目掛けて足を降り下ろそうとしている。彼は恐怖で怯えた。突然の非現実的な出来事に手も足も出ずに尻込みしてしまう。同時に、彼には何か不快な声が聴こえていた。その声は辺りに響き渡り、木霊のようになっている。彼が耳に意識を向けると、今正に巨人が何かを呟いていることが分かった。
「人民の……、人民による……、人民のための政治……」
松永にはそれがリンカーンの名言だと分かった。中学生のときに習って知っていたのである。
「死ぬ!」
松永は無意識のうちにそう叫んでいた。そして、何がなんだか分からないが、とにかくこれはもう終わりだ、と思った直後、青空に小さな黒い点が見えた。鳥だろうか、飛行機だろうか。それはしばらくすると大きな物体となり、大きな音を立てて運動場に降り立った。それはジョン・ウィルクス・ブースだった。遥かに松永たちよりも大きいが、実際はリンカーンの二分一ほどしかない。残りの特徴と言えば、不可解にもサンタクロースの服装をしていることである。全くと言っていいほど似合っていない彼は、巨人に向かって上空からキックを与え、危機一髪の彼らを守った、かのように見えた。
大木が折られるときのように、ゆっくりと巨人の身体は地面へと傾き、受身も取れずに倒れた。その際、リンカーンはまた呟いた。
「……夢がある者には、他人と争っている暇など無いのだよ……」
リンカーンが地面を轟かせながら倒れたあと、ブースはしっかりと地面へと着地し、驚いて声も出ない松永の方を見上げて、白い袋から古美術的なフリントロック式の小型銃を取り出し、その銃口を彼に向けた。そして不気味に笑ったあと、素早く乱射した。銃は火花を上げたのちに、弾丸は彼を目掛けて飛んでいくが、松永は運よくそれを避けることに成功した。その際、連射が得意ではないフィラデルフィア・デリンジャーは四発打つと不発が起き、何秒間か沈黙を作った。その隙に松永は直ぐ様廊下から逃げようとしたが、これから起きることに対して目を離せなかった。
いつの間にかリンカーンが立ち上がり、校舎の端に生えていた大木をブースに投げ付けると、勢いよく殴りかかって行った。ブースは飛んで来る大木を飛ぶようにして避け、フリントの当たり具合を調整するため、校舎から遠ざかろうと走ったが、夢中になっていたせいか校門に勢いよく躓いて倒れてしまい、腕を怪我してしまった。それをいいことに走ってきたリンカーンは起き上がろうとしているブースに覆い被さり、右手を掲げた。次の瞬間には殴られるだろうと松永は予想したが、いつの間にかグラウンドにいた竹田が地面に右膝を突きながら左膝を立てて、
「これでもくらえ、リンカーン!」と、ロケットランチャーAT―4の弾頭を二百メートルほど離れた巨人目掛けて発射した。その直後、反動を軽減するため、後方に発射ガスが高速で噴出されたが、無反動砲とは言え、身体的に未熟な高校生には衝撃は強く、回転力の反作用を受けて竹田は大きく仰け反った。 ――前方に射出された弾丸は巨人の尻目掛けて飛んでいき、爆音を立てたが、スーツに焦げ跡を残す程度であった。
松永にはどうして竹田があのような武器を持っているのか理解できなかった。そうして、思うように攻撃が効かないことを知った竹田は驚いたように言った。
「……ちっ、ヤツの尻はクラック・デ・シュヴァリエの外壁以上か!」
右手を掲げたリンカーンはその姿勢のまま、蚊に刺された人間のように尻を軽く掻いたあと振り向き、竹田を睨め付けた。すると、竹田は使い捨てだった武器を捨て、急いで松永にサインを送った。顔の前で罰点を作り、口パクで「逃げろ」と言っている。松永はそれを見て焦りながらも校舎を出ようと階段を駆け下りた。
そうしている間に、リンカーンはゆっくりと竹田に身体を向け、中腰姿勢で襲っていく。松永が中央昇降口に辿り着いたときには、巨人が鬼の形相で叫んでいた。
「……今日できることを、明日に残すな!」
そのときだった。一・二メートルという至近距離から、ブースがリンカーンの後頭部左耳部分を一発射撃した。
「専制者は常にかくのごとし、バージニア州のモットー」
ブースはそう言ったあと、直ぐ様口笛を吹いた。すると、太陽の昇る方角から高層ビルよりも大きな馬が走ってきた。彼はその馬に跨って大急ぎで逃げ始めた。左手に持った重そうな白い袋は騒ぐような音を立てていた。
竹田は校舎の右手に用意していた一輪車から、別のロケットランチャーAT―4を持って来て、
「なにしに来んだ馬鹿やろう!」と叫びながら発射した。
ブースの胸部を狙ったロケット弾は、途中まで真っ直ぐな軌跡を描きながら飛翔していたが、突然の横風の影響でブースの首元を掠めただけに終わった。
あとには、『お邪魔するつもりはありません。ご在宅でしょうか? ブース』と言うメモが風に舞って飛んできた。打たれてふらふらしていたリンカーンは、メモが地面に着くのと同時に校舎へと傾き、その範囲に入っていた竹田と松永は叫んだ。
「間に合わない!」
「危ない!」
青空がリンカーンの身体で見えなくなる直前、松永の瞳に四つのシャボン玉が見えた。そして、潰される瞬間、脳裏にリンカーンの名言が虚しく通り過ぎる。
「敵を無くす一番簡単な方法は、友達になってしまうことだ」
〆 〆 〆
そこで竹田は夢から覚めた。
物凄く不思議でおかしな夢だったが、親友の松永が出てきて、結構面白い夢だと感じた竹田であった。
「なんでリンカーンなんて出て来るんだよ。変なの。夢って変だな」
竹田は母が会社からもらってきた事務所用の椅子の背に、顎を乗せながら座って今まで泣いていたサツキを眺めていた。サツキとは、彼の妹に当たる四ヶ月の赤ん坊のことである。
つい四ヶ月前まで竹田が使っていたこの部屋も、今では六畳のカーペットが新しく敷かれ、布地のカーテンで覆われた引き窓から淡く差し込む光が、ベビーベッドを弱々しく照らしていた。今はサツキのために片付けられ、綺麗に、というよりもむしろ、竹田の物を一旦別の部屋へと運んだのである。しかし、以前使っていた電気製品のケーブルが幾つか残っている状態で放置されていたので、足元がふらつくばかりである。あとには、右端にテーブルが一つと掛け軸が吊るされているだけであり、掛け軸には「胡蝶之夢……荘子」と書かれていた。
将来的には、既に暗黙の了解だが、サツキがこの部屋を使うということになっている。そして当の竹田は、少し狭い二階の部屋に移ることになる予定なのだ。実際、荷物が置かれている場所がそこに当たるので、仕方がないのかもしれなかった。――事実、流れとは言え、ベッドを二階に移してしまった所から、部屋を変えざるを得なくなったのである。
現在、彼は二階で寝ている。移したときに多少掃除をしたが、やはり、しっかりと改めてやらなければ埃を吸って風邪でも引いてしまいそうだった。しかし、そこで四ヶ月持ったのは彼の先天的な免疫力に他ならなかった。
因みに、二階には四つ部屋があるのだが、そのうちの一つは既に竹田の姉が使っている。つまり、彼は弟か妹ができれば、必然的に二階に移るだろうということを予感していたのである。しかし、現実を直視したくなかったのが実の所本音である。何故なら、倉庫のように使われている一方で、大の男子高校生が使うには狭過ぎたのである。ただ、彼の姉は広い所よりも狭い所が好きだったので、性に合っていたというわけである。
「あ~~あ、あの狭い部屋か――。アネキは狭いとこ好きだからいいけど、僕はあんまり好きじゃないんだよな」
独り言を呟く竹田。目には怠さが見られ、曲がった背中は日頃からの姿勢の悪い猫背を象徴している。
竹田にとって今日は久し振りの休日であった。学校もサッカーの練習もない。しかし、姉が無断で出掛けて行ってしまったので、必然的に彼が子守をしなくてはいけなくなった。
「まあ、別に、やることって言っても大したことないんだけどな」
竹田は、何故サツキが泣いているのか全く見当が付かず、あたふたしていた自分を思い出し、苦笑した。実際、彼はサツキがお腹を空いているのだと考えていたが、結局おしめであった。いつもなら母か姉が代わりにやってくれているので、竹田にとっては殆ど始めての体験である。ただ、彼女らがやっていることをある程度知っているのか、時間はかかったものの、最後は上手くいったのである。
先程までサツキに気疲れさせられた竹田であったが、ベビーベッドですやすやと寝ているサツキの様子を見ると、どこか愛しさを覚えてしまう。嫌々世話をすることになったが、結局の所、こういうことも好きだなと竹田は思った。そう思うと、なんだか胸の辺りが柔らかくなって、優しい気持ちになっていく。
そして、また眠くなったのか、瞼が重くなり、周りの景色も薄れていく。こくりこくりと頭を上下させながら、ついに目を閉じると携帯電話が微動して鈍い音を立てた。マナーモードになっているので、それほどうるさくもなく、竹田は眠いので出なくていいだろうと思ったが、眠い気持ちを余所にその鈍い音は鳴り続けた。サツキが寝返りをし始め、直ぐにでも起きそうになるので、彼は仕方なくテーブルに置いてあったそれを取ろうとした。が、左足が散らかっているケーブルに絡み、彼は頓狂な声を発しながら床に倒れ込んだ。ドサッと音が立ったと同時にサツキが目を覚まし、また泣き始めた。それに呆れながらも、まだ鳴っている携帯電話に手を伸ばし、ボタンを押して耳元に当てる。すると、突然の爆発音が耳を打った。反射的に携帯電話を耳から離す。それでも爆発音が鳴り続き、その中からかすかな人間の声が聴こえてきた。叫び声でもあるし、泣いている声でもある。
そして、しばらくそのまま放置していると確かな声が聞こえてきた。
「おい、竹田! 聴こえるか」
聞き慣れた声が耳に触れると、安心感と共に不安があふれた。
「松永か! どうしたんだ、その音は――」
「大変なことになった。世界安全保障委員会の発表によると、気象衛星の観測で、もう四時間くらいすると隕石が地球に落ちて来るらしい!」
「そんな馬鹿な。ありえない! 今までなんの放送もされなかったじゃないか。どうしてそんな急に――」
「隕石の軌道がずれたんだ。その事実を隠蔽していたのは政府とメディアらしい……。隕石の規模は、地球の八分の一ほどもあって、みんな助からないんだと! それでどうせ死ぬならやりたいことやって死にたいってヤツがたくさん出ちまって、大変なんだ」
〝世紀末〟
そんな言葉が竹田の脳裏に浮かんだ。しばらく彼は携帯電話をテーブルに置くことにした。何度も松永が電話越しに「おい」とか「しっかりしろ」としゃべっているが、もう聞く耳を持ってなかった。
どうにも信じがたい話だと、竹田は思った。そんな話を誰が信じるだろうか。今まで普通に生きて、普通に家族の帰りを待っているこの瞬間に、世界の終わりが刻一刻と迫っているなどと、彼は一切考えることはできなかった。それはいかにも、「死」を考えたこともない人間が、事故や病気で改めて自身の「死」に直面したときと似ている。まさに、この世界の人間は世界の「死」を想像していなかった。いや、したくなかったのか、それとも、できなかったのか。だとしても、何か対策ができると思っていたのだろう。情報が伝わらない事態など、一切想定していなかったのだ、と竹田は改めて人間の愚かさと虚しさを知った。
季節外れの隙間風が窓から吹き、同時に騒がしい人の声が聞こえてくる。恐怖と混乱に満ちた人間の声である。
「まさか!」
竹田は急いでカーテンを引いて窓を開けると、外では走り去る者、転んで立てない女の子、一人で泣いている少年、呆然と立ち尽くす老人の姿があった。中には、
「死にたくない、死にたくない!」と叫び始めて夢中で走っている人間もいる。
その光景を見て、松永が言っていたことは実際に起きているのだと竹田は認識し始め、急に不安と焦りが生まれた。そして彼は、どうすればいいのだろうか、何かしなくてはいけないと思いつつ、しかし、どうすることもできないのではないかと頭を掻いた。そんな思いが頭の中でずっと回っているのに気付き、それ以上考えるのを止めた。
竹田は迷った挙句に、いまだ泣いているサツキを抱きかかえ、携帯電話だけを持って家を出た。
途中、父や母、姉に連絡を試みたが、電波の問題なのか、または仲介地が機能していないのか、誰一人として繋がらなかった。
竹田の家は大通りから逸れた所にあるので、やや迷路のようになっている。道の幅は四メートルもないせいか、狭い空間は一般車で渋滞し、いつもがらんとしていた歩道も今や人込みで溢れている。竹田はとにかく逃げるようにして、どこかに向かおうとしている人達に紛れることにした。しかし、ときどき聴こえてくる、
「どうしたらいいの!」
「分からん、とにかくみんなに付いて行くんだ!」という会話を聴き、彼は自分と同じ考えの人ばかりだと感じた。つまり、その行動自体は直接の問題解決には何も関与していなかったのである。
各地では松永や竹田のいる所を始め、多くの問題が起きていた。例えば、電車や飛行機である。
電車は、どうしたらよいか分からず運行を見合わせていたが誰かが辛抱できず、運転席に乗り込んで勝手に操作したせいで、同じように乗っ取られた電車同士が正面衝突するという事件が各地で起きた。
同じように運行を見合わせていたのは飛行機である。地球崩壊とまで言われた情報によって世界中どこに行っても助からないと全空港会社は判断し、それによって使う人も少ないとの企業の考えに起因するものだったが、死ぬときは祖国の家族と一緒に死にたいという人が思いの外多く、仕方なく飛行機だけは運行を再開することになったのである。その際に、ハイジャックを防ぐためにタンクから燃料を抜いていたので、再び四台ほどの飛行機に燃料を注いでいた。
ニュースはやっていた。しかし、確かな情報を報道し切れなく、やる意味さえも見失っていた。正しい情報を巡って各地では混乱が続き、ついには諦める人も多くなった。
途方に暮れていた竹田は、思わずその場でサツキを抱きながら膝を付いた。サツキは今まで以上に大きな声で泣き始め、彼の不安を扇ぎ、彼は「死」に対して恐怖を感じ始め、世界が終わることの恐ろしさを必死に考えようとした。
「もう駄目だ……」
竹田はそう心から思い、無意識に凍て空を仰ぐと、そこには四つの漂うシャボン玉があった。虹色に揺らぐそれらは、どこか感覚的に『夢』そのモノを連想させた。そして、彼は思い出したように、
「そうだ。あの人に任せればいいじゃないか。そうだよ、その手があった」と呟いた。
竹田は即座に携帯電話を開き、最近全く話したことがない、ある名前の人物を探して連絡することにした。画面をスクロールしていくと、友人や家族の名前の中に混じって〝石田徹〟という文字が見えた。竹田は急いでボタンを押した。
しかし、携帯電話を耳に当てている最中竹田の脳裏には不安と疑問が過ぎっていた。この事態になってからまだ松永だけしか連絡がついた人物はいない。それに加え「最近」という言葉が、いかにも自分の近い前後関係を表していると頭では理解できるのに、そう心で感じないことだった。とても遠い昔のような気がする。
そうこうしている間に相手は出た。
「はぁい、もぉおしもぉおしぃ?」
何やら口をモグモグさせながら喋っているようだった。
「やった、繋がった! すみません、訊きたいことがありまして――」
竹田が言い終わる前に、男は苦笑しながら答えた。
「ああ、言いたいことは分かっているし、私が君に言うことも一つだけだが、君の返答いかんでは話を長くすることもできる。どうする?」
竹田は相手の言葉に対して何か違和感を抱いた。これは一度ではないような既視感。何度も繰り返したかのような錯覚を、彼は感じていた。
改めて考えてみると、自分で電話を掛けた人物のことを、何故か知っているようで知らない。竹田はこの状況を打破するにはこの人しかいないと無意識のうちに思っていたのだ。竹田自身もこれが不思議でたまらなかった。
「どうして黙っている」
「……なにかこう、前にもこんなことがあったような気がして」
「君は鋭いな。いや、その携帯のせいかもしれないな」
石田は何やら独り言のように呟いていたが、竹田はその真意を理解できなかった。
「連絡しなかったのは、君が連絡をしてくることを知っていたからだ」
「そ、それはどういうことですか」
外の騒動が邪魔をして上手く聞き取れないので、誰もいない小道へと歩きながら竹田は言った。それに対して冷静に受け答えをする石田。慣れているような態度である。
「君が君であって君でないものに私は何度も話をしている。あるときは地震。あるときは巨人。またあるときは隕石。全て君からの報告だ」
「そ、そんな僕は知りませんよ、そんなこと……それよりも今は大変なんです」
「まぁ、落ち着いてくれ。驚くことはないし、動揺する必要もないが、君はいつもそうだった」
「――どういうことですか?」
「実はもう、君に何回もこの会話をしている。ことあることに、君は私に希望を見出して、君自身の、もしくは誰かの世界の終わりを阻止しようと電話を掛けてくるようだ。――事実、その『夢』世界とこの『現実』世界を結ぶことができるのは、私の電話番号が記されている携帯電話、つまりは私の手掛かりを持っている者、と同時に私の存在を認識することができる人物に限られる。その条件を満たしている、『夢』世界と『現実』世界を結ぶことのできる唯一の存在は君だけだ」
「な、なにを言っているのか、さっぱり理解できません。『夢』ってなんですか。『現実』ってなんですか。今、僕が経験していることが『現実』じゃないんですか」
竹田は八つ当たりのように焦りを言葉に乗せて吐き出した。言えば言うほど自分の中に不安の気持ちが増えていき、そうして何故自分がこのようなことを言ってしまったのかと、半ば後悔し始めた。
「……すみません」
「いや、謝ることはなく、当たり前の返答だよ。いや、当たり前の疑問と言うべきか。君には何度もそう言われて慣れているが、常に君に相応しい言葉が見付からない。しかし、君に説明をする際に必要なのは、『夢』の中に出てきた松永君の存在だろうな」
「……どうして松永が僕の『夢』の中に出てきたことを知っているんですか」
竹田は疑問の矛先が変わってしまうほどに、気味の悪いものを感じた。できれば聞きたくないような答えが待っていそうであり、不安の中に手を突っ込んで、正体のはっきりしないモノに触れているときの、あの気持ちの悪い感触を抱いた。
石田は昔のことを思い出すように乾いた声で少し笑ったあと、残念がるように語った。
「松永君のことは、一回目に君が連絡してきたときに聴いたよ。三回目だったか、ユカリのことも……」
石田の言っていることを完全に理解できないまま、竹田は頭が混乱していた。自分は何度も石田と話していて、そうしてその度に自分にとっては『現実』の話を、石田にとっては『夢』での出来事を話している。直ぐには整理がつかなかったが、少しずつ薄っすらと実体が見えてきた。そうして石田の言っていたユカリとは誰なのか、次第に消えかけた記憶の中にぼやけた空間があることに気が付いた。教室にいたような、けれど、それは実際にいないようで、そもそも同じクラスにそんな子はいなかった、と竹田は何度も頭の中で反芻した。しかし、考えがまとまる前に石田は言った。
「君も『夢』を見ている。松永君も『夢』を見ている。つまり、そのシンクロを可能にすることが今回の実験による意義だったわけだが――」
「実験ってなんなんですか。どうして僕がそんな実験に参加しているんですか。分かりませんよ……」
石田の話に集中していたせいで、泣き叫ぶサツキの声すら聴こえていなかったが、複雑で難解な話に付いていけなくなった竹田は空を見上げて逃避しかけていた。
「勿論、『現実』では松永君は亡くなったことになっている。しかし、脳はちゃんと生きているということを証明するために、今回の実験に大きな意味があったというのは想像に難くないことなのだが――まぁ、いい。そんなことは。それよりも、もう少し説明が必要だな。これが最後なのだから」
竹田は答えをつかもうとして逆に遠ざかってしまったような気分だった。石田の語っていることが曖昧で雲をつかむような話だったが、理路整然とした彼の言葉には一つひとつ強さと自信を垣間見ることができ、疑うことさえも愚問のように感じさせる。いかにも実験と観察を繰返してきた科学者らしき気質を想像させるものだった。それでも石田の言っている論拠と証明を聞かないことには話は始まらない。そこで竹田は意を決して、自らその話題に踏み入れることを決心した。
「よく分かりませんが、もっと教えて下さい。この世界のこと、アナタの実験のことを……」
石田は今までの声とは一味違うトーンで「分かった」と言い、胸の内を明かすように語り続けた。竹田はそれを静かに聴いていた。
「では、君が何故私との会話を覚えていないかの話から話そう。
――『夢』世界では『現実』世界で自然に行われている変化が乏しいのだ。ここで言う変化とは物質的な変化よりも、人間の心理に及ぼしている記憶に直接関係がある。変化を捉えることで人は物事を記憶する。だが、実験中の昏睡状態では海馬の機能が一時休止しているため、視床下部の情報は短期記憶としてしか脳には留まらない。それによって、感じる時間の流れも狂ってしまうし、感覚も鈍ってしまう。故に、君の感覚器官が変化を捉えず、記憶が曖昧なのだ。――君は地震を恐れていたし、松永君は巨大な物に怯えていた。子供の頃の記憶が作用して、経験した内容が歪み、そして歪曲化した『夢』を生んだのだろう」
一呼吸置いて、石田は言う。
「君は松永君の『夢』を見て、松永君は君の『夢』を見ていた」
椅子に座っていたのか、回転した際に出る高い音が聴こえる。
「君にも知る権利がある。私たちがどうしてこんなことをしていたのかを……」
石田の声は淡々として、且つ力強い。それは今も変わらないが、どこか憂いを帯びた口調に変わっていった。
「溶媒に脳だけを浸し、細胞が壊死しないように環境を整えたのだ。それも温度から栄養状態まで管理してね。どんな小さな波長も逃さないように、心電図のごとく脳電図を作って毎日観察していたのだが、一人の状態では意味を成さなかった」
竹田は脳が溶媒の中に浸されている想像をすることができなかった。代わりに、授業で習ったことのある脳単体の絵が、水分をまとって粘っこくなっているのを想像して吐き気を催した。しかし同時に、溶媒に浸される脳がいかに科学的に魅力を放っていたかを、石田の声の調子から知ることができる。脳は彼らにとって実験台であり、また《物》であったに違いない。機械的に処理をされた脳は全くと言っていいほどに簡素で、ともするとキレイに映っただろうと竹田は思った。その意味で石田は一人の科学者として、純粋に命を探求しようとした立派な人間であるかもしれないとさえ感じたが、やはり、石田の威厳はどこか虚しく竹田の耳に届いていた。
「松永君の脳電図は君とコンタクトを取っている最中に反応していたわけだが、それを証明するには君自身の言葉から聴く必要もあったのだよ。まぁ、あくまでも参考程度にはね。……因みに、君が見たシャボン玉とは『夢』と『夢』を繋ぐための脳の電波信号、つまり、お互いのコンタクトが実体化した姿だと推測される」
それから石田は「二回目に私はそう言った」と付け加えた。
「もしかして、だから僕を利用したんですか。僕の身体はどうなっているんですか」
竹田は声を震わせながらしゃべった。石田がどの程度科学に魅力を感じていたことや、科学が命を探求することに対しての威厳など、今の竹田には直接関係がなかった。あるのは、単純に自分の存在についての疑問である。それについて石田は淡々と説明をする。
「君の身体自体は生きている。脳も無事だ。今の所はね。いつダメになるか分からない。――ただね、君はサインしたのさ。私たちが秘密裏にボランティアを募っていたのを、君は偶然見付けてね。君はそのとき、親友の松永君を亡くして塞いでいた。だから、協力してもらうことした」
石田は堰を切ったようにしゃべった。ダムの水が一気に流れるように激しく、雷が大地に降り注ぐように痛々しい音を放つ。
「いいかい、私には娘がいる。そして、その子を殺さないように、私はこうして実験を繰り返している。なのに、頭の堅い政府の役人ときたら、命を弄ぶのは許されない行為とかぬかして強制的に実験をやめさせようとしやがった。誰が命を弄ぶって? 俺は命が大切だからこそ、命を救いたかったんだよ」
石田の語り方は先程までとは打って変わり、毅然とした態度の「私」は自己主張を前面に押し出す「俺」へと変貌していた。それは冷静さを欠いた非理性的な感情の表れだった。
「だからって――」
「もう君から訊く話はない。もう十分過ぎるほど聴いたよ」
石田が放つ言葉一つひとつに狂気じみた純粋さと娘に対する優しさが入り混じり、気持ちの悪い雰囲気を作っていた。が、石田は意図的にそれを言ったかのように、演技くさい所があった。さも、台本通りに今までのやり取りを再現しているようだった。
「……だから、分かったのさ。君が何度も同じ質問をする度に冷静に考えた」
石田の声は喉の奥底からやっと出てきたような声だった。
「……永遠に『死』を体験する『夢』とでも言おうか。誰かと『夢』を共有して行動することもあれば、単にそれは『夢』を傍観者として見ているに過ぎないこともある。その世界の中で記憶は実に曖昧だ。単に存在していることが生きていることに直結しなくなる。曖昧な次元の問題があった。
――私は今回の実験で学んだことがある。たとえ人の脳が生きていたとしても、それを『現実』において具現化できないのであれば、彼らの中に苦しみの連鎖が永久に断ち切られることはないということを……そして同時に、私は残酷なまでに科学に魅入っていたようだ」
半ば懺悔のようにも聞こえてくる石田の口調からは後悔の念があふれていた。竹田は彼の言葉を忘れないために、目を閉じて集中した。
「幾ら仮想空間との時間の差異が激しいからと言って観察が不可能なわけではない。人の睡眠にはレム睡眠とノンレム睡眠があるが、人が夢を見るのはレム睡眠の方だ。それは九〇分おきに二〇分から三〇分続き、一晩で四回から五回のレム睡眠が起きる。特に、このレム睡眠中に覚醒をすると、内容を薄っすらと記憶していることがある。ちょうどこの覚醒が起きるのが、お互いに波長の合ったときだけなのだ。つまり遭遇する確率も低いと言える。
――ここではまだ実験を行なってから一週間経った所だが、もうやめることにするよ」
だいぶ声の調子が弱くなっていった。
「つまるところ、精神的な被害とは言え、脳は少なからず損傷を受けている。生死をさまよっている瀬戸際の脳なら尚更もたないだろう。しかも、それが予想以上に早過ぎた……」
竹田は彼の言う脳が、誰の脳なのかを薄らと理解した。
「人の『死』を受け入れることが、どんなに救いになるのかを、今回私は知ったよ」
三十秒の沈黙が流れた。ただし、それは四十秒ではなかった。どうしたのかと思い、竹田は問いかけた。
「……石田さん……?」
電話越しにすすり泣く声が聞こえた。竹田はそれを聞いて黙っていた。
「……私個人が問題を起こしただけなら私が処罰されれば済むことだ。しかし、私に手を貸してくれた研究員のメンバーがいる。彼らを路頭に迷わすわけにはいかない」
そう言うと、石田は周囲の人たちに聴こえるように今まで以上に明白にしゃべった。
「私の生命保険では少な過ぎるとは思うが、資本だと思って未来へ生きてくれ」
みなが否定をする声が聴こえる。すすり泣いたような声を出す人さえいる。
「なぁに、命を弄んだ罪さ」
少しの沈黙のあとに、石田は口を開いた。
「松永君のことは残念だった。力になれなくてすまない。君のことはここにいるメンバーに付き添ってもらって故郷へと送り迎えをしてくれることになっている。だから、安心したまえ」
「……ありがとうございます」
竹田は自分の言っていることに反発した。感謝を言いたいのではない。しかし、言葉にできない。竹田自身も目尻が熱くなっていた。そうして竹田は今まさに今まで忘れていたかのように『夢』から覚める気持ちに胸が一杯になった。
「――あと言い忘れていたが、今回の記憶を覚えているとは限らないからね」
「え、そんな――」
「それじゃ……ありがとう」
何やら視界が揺れた。竹田は意識が遠退いていく中で確かではないが、どこかでシャボン玉が割れる音を聴いた……。
そして同時に、石田の最後の言葉を思い出していた。
どこか優しい声だった。
そうしてその声が一つの記憶を引っ張るようにして思い出させた。
松永の夢の中で出てきた女の子の言葉。
ねぇ、知ってる?
桜の木の下には死体が埋まっているということを。
わたしはそこでアナタが来る前から眠り続けているの。
アナタの夢はわたしの夢。
蝶が桜の木の周りを飛んでいるよ。
アナタはそれを見て悟るでしょう。
これが夢だということに。
アナタが『死』から逃げれば逃げるほど
『四』の数字はアナタを追ってくる。
『死』は明日を消し去り、『夢』は明日を創造する。
記憶はアナタの存在自体が曖昧なことを表しているの。
もし記憶がなくなれば、アナタは消える。
もちろん、アナタの中のわたしも消える。
シャボン玉は桜の木への道標なんだよ。
「わたしはもう大丈夫」
だから、アナタはわたしのお父さんに、
わたしが元気なときに泣かないでと
知らせて欲しい。
そう、それが石田ユカリの願いだった。
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