はじめに
現在、私たちはさまざまな文化に触れている。しかし、「さまざまな文化」と言われたとき、「文化」がなにを示し、「さまざまな」がなにを示しているのかを日常的に意識している人も少ないだろう。
固有の文化とその多義的な派生は、日本だけに見られるものではない。例えば、日本人の使用している日本語も、歴史面において中国文化の影響を受けている。鎖国状態の日本に見られたような固有の文化も、過去から現在に至るまでの過程を追っていくことにより、現在の状況が浮かび上がってくるわけである。
もちろん、さまざまな文化を意識するということは、自分たちの文化を意識することでもある。しかしながら、「自分たち」と簡単に表せる言葉でも、なにが自分たちを形成しているのか、自分たちとはどういうものを示しているのかという、そのもの自身の定義に疑問が生まれてくる。
以上のような疑問を解決するためには、さまざまな文化のそれぞれの文化間の流通を見ていく必要がある。そのための判断材料として、越境文学という文学のジャンルがあり、この「越境」という言葉は近年の世界的な規模での交流を想起さえもするが、実のところ、越境文学というものは現代に新しく興ったものではない。言い換えれば、「越境」という言葉自体が使われるようになったのは認識の方に問題があるのである。例えば、近代の文豪である夏目漱石はイギリス留学を経験し、その際に触れた異国の文学に根ざした異なる文化観の経験を元に日本での執筆活動を行っている。そのように異国の文学の影響もまた、越境文学の根本的な基盤であるとも言える。
本稿では夏目漱石や森鴎外らの文学的な意義や創作上の特徴などを深く語るよりも、それぞれの共通点を掘り下げ、越境文学としての役割に焦点を合わせていきたい。
先行研究
基本的に越境文学を中心に考えるとき、参考になるのは、日本比較文学会が2011年6月20日に発刊している『越境する言の葉――世界と出会う日本文学』であり、47人もの執筆者が寄稿している。日本比較文学会学会創立六〇周年記念論文集という名目が添えられているが、それぞれの執筆者たちは本格的な研究ばかりが並べられている。
全体としては、アジア語圏、欧州語圏、英米語圏に分かれ、総論だけ世界の中の日本文学が付け加えられているが、各論はほぼ総論と同じ項目である。
アジア語圏は、「中国における日本文学」や「近代韓国における日本文学の翻訳と文化政治」、「東南アジアにおける日本文学」を主に研究しており、日本とアジア圏を比較した上での総論となっている。
欧州語圏は、「フランスにおける日本文学」、「ドイツ語圏における日本文学」、「スペインにおける日本文学」、「ロシア語初訳の宮沢賢治集」である。どれも日本との比較だが、フランスやドイツ、スペインはそれぞれ移民文学やポストコロニアル文学としても関係が深いため、歴史的な背景を元に述べられている。
英米語圏でも「英語圏における日本文学受容の昨今」、「イギリスにおける日本文学――ステレオタイプの功罪」、「日本SF その受容と変容」となっており、明治期の近代化を考えれば、西洋の文化に根ざした日本の小説との関係性は非常に大きく、またそれが現代に至ってどのように受け入れられているのかが考察されている。
「世界の中の日本文学」ついては、それぞれ万葉集や歌舞伎などを挙げながら、日本と世界との関係を述べている。日本の伝統的な和歌や歌集は、日本の学者のみならず、海外の学者にも研究されてきたテーマである。歴史的考察、他国への伝来、またその影響は言わずとも現代の日本の姿を浮かび上がらせてくれるだろう。
本論
江戸期から明治期に移り変わる際、日本の作家は二つに分かれた。
ひとつは平安時代から江戸時代までの、井原西鶴や近松門左衛門らの古典主義に対する再評価を軸とする、1885年に作られた硯友社のメンバーである尾崎紅葉や山田美妙らである。彼らは「我楽多文庫」という雑誌を発刊する。
我楽多文庫の存在は、のちに文学の近代化を主張することになる、ロマン主義文学が台頭する要因となる。ロマン主義文学は、自我意識の目覚めが人間性の解放を促すという、閉ざされていた性の開放により、現在に自由を求めた姿勢の一派である。代表的な作家としては森鴎外、北村透谷、樋口一葉らがいる。これらの背景には、近代日本に行われた欧化政策が原因だと筆者は考える。西欧貴族文化を極端なまでに日本文化として取り入れようとした鹿鳴館時代の流れに逆らった人たちが国粋主義者とされたが、彼らは西欧文化に対する理解も持っており、排外的な意味での自文化至上主義を唱えたわけではなかった。
もうひとつは、二〇世紀の初め(明治時代の末期)にゾラやモーパッサンらに影響を受けた島崎藤村や田山花袋、国木田独歩らの自然主義文学者である。それに伴い、夏目漱石やのちの森鴎外らが反自然主義文学と言われる文学のジャンルを確立した。反自然主義文学が自然主義文学に対するものであること以上に、両者はどちらも海外の影響を受けていると言える。自然主義文学がロシアやフランスにその素材を求めたように、反自然主義文学の森鴎外はデンマークのアンデルセンに、夏目漱石もまた日本国外であるイギリスに小説の素材を求めた。特に森鴎外はアンデルセンの『即興詩人』を日本語に訳したことで知られているが、ドイツ留学の経験を元に『うたかたの記』、『文づかひ』、『舞姫』を執筆する。海外留学の経験を元に執筆活動を行う時点では、漱石と鴎外に違いは見られない。しかし、その後の文学活動の変化を与えた契機としては、それぞれ個別の影響が見られる。
『こころ』を執筆した漱石は『私の個人主義』にも見られる通り、次第に対象とする小説の素材が外から内に向いていくが、鴎外は依然として小説の素材を外に求め続けていた。この相違は、今日の越境文学を語る上で重要な下地となる。
鹿鳴館時代の国粋主義文学や自然主義文学、反自然主義文学などに共通して見られる点としては、日本国外による影響である。例えば、海外における文学的な活動を模範とする自然主義文学が生まれたことにより、国粋主義文学が成立したと言える。また、主義主張はさまざまだが、それぞれその根底にあるのは国家であり、個人であり、言語の存在である。
沼野充義が「夏目漱石は果たして日本の作家なのか」と言及しているように、国家としての日本、国家としての個人、個人としての言語、言語としての国家というようにそれぞれは円環的に影響を与えている。つまり、作家の住んでいる場所、物語と国家との関係性、作家の言語と国家の言語は密接な関係を持っているため、それぞれを蔑ろにはできないのである。例えば、小泉八雲という小説家がいる。彼の本名はパトリック・ラフカディオ・ハーンであり、ギリシャ出身の新聞記者だが、日本の説話的小説を海外に広めるために尽力したことで有名である。しかし、彼の場合、日本語で小説を書くまでには至らず、結果として原文の日本語を英訳することになる。当時の日本、あるいは日本文化を紹介する人物のひとりである。ハーンのように母語を日本語としない作家が日本文学を取り上げることの意味は、明治期の日本にとって自国の文化を海外に伝播していく役割を担ったことや、日本人以外が日本の小説を推し進めたところにある。加えて、ハーンは日本国籍を取得しており、松江市に滞在している際に小泉セツと結婚している。しかし、彼を日本人、あるいは日本の小説家と呼べるのかどうかという部分においては疑問が残る。まさにそこが越境に関しての本質的な疑問であり、今後、拡大していくであろう越境文学の走りを思わせる。
他国を例として挙げれば、世界三大宗教とも言えるユダヤ教は、元もとバビロン捕囚が行われる以前、地域としてのユダヤ人を重要視していたが、その後の宗教的な認識が変化し、ユダヤ教を信じている人々がユダヤ教徒とする認識が広がり、宗教は存続することができた。その意味では、場所、宗教、言語が人種を分けているという事実も軽視できない。他にも、1970年代に翻訳学が成立した地域がイスラエルであったように、中東にその起源があると考えられる。当時、ユダヤ教と共に世界三大宗教とも言えるのがイスラム教であるが、このイスラム教においても『コーラン』という聖典が存在し、それを他国に広めるため、翻訳する必要性が生まれたことを鑑みると、地域の独特の文化が国境を越えて拡大していく過程がまさに「越境」することであるとも言える。加えて、近代化に伴うナショナリズム(民族主義)とイスラーム革命との出現は必然的であり、イスラム圏によるナショナリズムはまさに日本文学におけるロマン主義の位置にある。また、イスラーム革命が起きてからのイスラーム主義とイスラーム近代主義との派生は、自然主義と反自然主義とも呼べるのであり、無関係とは言い難い。他にも、明治期における日本の近代化と同時期に同様の政策が行われたトルコも例に挙げることが可能だ。当時、トルコの建国者であるアタチュルク大統領は、経済的な貧しさから脱却するため、世俗化を進めた。その際に模範とされたのが日本の存在である。当時の日本は西欧の文化が混入し、文化による混乱期とも表すことができる。その中でも、日本人というアイデンティティを失わず、独自の文化を形成していったことは、全世界的にみても稀なケースである。しかし、トルコの世俗化には問題点が存在した。それは日本では見え隠れする民族と宗教の存在である。日本におけるマイノリティも常に表面に現れるものではなく、フランスやタイなどのような同化政策とは異なる排他的な性格を含んでいたため、トルコのようにクルド人問題やある一部の宗教を信仰する少数の人々の問題が顕在しなかった。その一方、トルコのように経済的に孤立することなく、第二次大戦後のGHQによる大日本帝国憲法から日本国憲法へ改憲されたことは、鎖国による孤立主義を貫こうとした日本にとって非常に大きな経済成長への転機となる。
明治期の日本で行われた議論の中に、「英語の国語化」や「漢字の廃止論」、「ローマ字採用」、「日本語表記の表音文字化」があったことも大きな出来事だったが、結果的に日本は漢文の読み下し文と和文を織り交ぜた形で欧文翻訳することになる。従って、当時の翻訳事情として英語から日本語へ直接訳すことが困難な状況が存在した。例えば、ヘンリー・ウィートン原案の『万国公法』においても、英語から漢文に翻訳したあとに日本語に訳されている。つまり、重訳になっているのである。明治期以前、特に第一次世界大戦前後から日本は(魯迅を除き)中国の儒学を背景とした漢文の翻訳物が少なくなっている。これは戦争の際、相手国を知るためのアプローチの仕方が変化したからだと考えられる。特に、それは日本における中国文学にも色濃く出ている。例えば、和洋の知識に富んだ芥川龍之介であれば、子供向けではあるが『杜子春』という中国を舞台にした作品を1920年に発行している。また、中国好きな谷崎潤一郎は二ヶ月間の大陸周遊を自伝的に描いた『上海交遊記』という作品を1918年に発表している。他にも、国語の教科書に紹介される中島敦も漢文の知識に造詣が深く、中国の昔話である『人虎伝』に独自の解釈を取り入れた『山月記』や死後に発表された『李陵』などがあるが、これらは1942年を境に見られなくなる。むしろ、永井荷風の『ふらんす物語』や『あめりか物語』のように、西洋の文化に触発された作品が大多数を占めた。もちろん、これには明治政府による西洋的教育が背景にあるが、教育の場を中国から西洋に移したことの結果であると言える。
いずれにせよ、西洋化がもたらしたゾラやモーパッサンらを代表とする異国の文学の影響が明治期の日本には押し寄せていた。その近代化の流れの中、二葉亭四迷や志賀直哉らが写実主義としての技工と発想を得たのも、この西洋化がもたらした益であるとも言える。その一方、中国文学のように捨てられた文学があるということも念頭に置いておく必要があるだろう。もちろん、それは日本を主観として捉えた際の見方であるため、世界的に中国文学がどの位置にいたのかはまた別物として考える必要がある。
以上のような出来事から想起されるのは、日本語の「翻訳」という言葉よりも、多義的な一面を含む「translation」のような社会、文化、コミュニケーションを基盤とした他者への意識が主な印象だろう。近年の多文化主義に代表されるように、翻訳がもたらす効能とは、他者への理解や解釈の可能性を広げ、また人々の方向性を示すことにある。その際は、行き過ぎたグローバリズムを牽制しつつ、文化としてのマイノリティを確立していく必要がある。まさに「世界文学」とはその理想の形なのではないだろうか。例えば、西ドイツのトルコ人移民問題にも見られる通り、西ドイツの同化政策がトルコ人の伝統と人種の尊重を必ずしも保証するものではないということや、それにより教育上の面から文化を取り上げることになるのならば文化の略奪であり、マイノリティの排斥に拍車を掛けている。それは文学も同じである。
原文を原文のまま紹介することに関しては機会の有無が重要になってくるが、「等価性 equivalence」を重んじる翻訳という作業においてならば、その過程が重要であり、結果として原文との相違が表面化したとき、オリジナルの思想との相違を生むことにもなり兼ねない。意味の派生が翻訳により拡大することに、課題もまた存在する。原文の重要性とその派生の受け入れとの間には、翻訳という小説の分野を介して揺れ動いている。だが、原文にしろ、その翻訳物にしろ、お互いに共通する点があるはずであり、全く異なる作品にすることは翻訳の根本的な定義からも逸脱するものになる。ロマン・ヤコブソンは『一般言語学』(1973年)の「翻訳の言語学的側面について」の中で、それぞれ言語内翻訳、言語間翻訳、記号法間翻訳というふうに翻訳の定義を分け、そのどれもに共通するものとして〈創造的な核〉という表現を使用したが、まさにそれが文学の根底に流れる変わらずあり続ける部分である。またヴァルター・ベンヤミンの『翻訳者の使命』(1923年)においては、〈純粋言語〉の存在が示唆されている。純粋言語とは、まさに多和田葉子がエクソフォニーと表現したものと同義である。個別の言語に見られる独特の意味合いや並べられる象形の美しさなど、固有の言語学的形成の仕方を経ている場合、それ以上の芸術的価値を翻訳が与えることは不可能なため、別視点での補完が最終的に〈純粋言語〉を生み出すのだという考え方だが、これは日本の平安時代に見られる万葉仮名から平仮名・片仮名に変化した流れにも当てはまる。単に翻訳という作業がAという言葉からA’という言葉を生み出すだけではなく、そのことにより新たな表現の幅が生まれることこそが〈純粋言語〉の持つ可能性であり、翻訳文学がもたらす効能と言えるのではないだろうか。
おわりに
越境文学を語る上で、国と国との関係はそれぞれの文化や物語性を浮かび上がるための契機となる。そのため、日本の文学を語る上で、日本と日本以外を比較することの意味は大きい。しかし、日本という国を考えるとき、果たして日本という国が文学的に揺るぎない国であるかどうかは判断する必要がある。さまざまな文化と共に文学が派生していく中、日本は日本としての文学を捉えるため、よりさまざまな文学に触れる必要があるのではないだろうか。
現代では、リービ英雄、多和田葉子など活躍する越境文学者が増えてきている。今後はそれがより拡大していくことは間違いない。特に、民族間による受容の体制が日本だけではなく、海外としても変化していくだろう。そして、文学もまたそれとは無関係ではない。越境文学者のくくりさえも曖昧になるほど、多国間の主義や主張が文学において共有されていくことは、今後の世界を形作っていく上で、非常に重要な基盤となる。
参考文献
沼野充義『世界は文学でできている 対話で学ぶ〈世界文学〉連続講義』 光文社 2012年1月20日
井上健編『翻訳文学の視界――近現代日本文化の変容と翻訳――』 思文閣出版 2012年1月15日