『景色を見つめて』 葵夏葉
水晶
曇り空からひとつ
青い水晶をひとつ
この手のひらの中
氷も残らぬほどの
焼ける水晶にして
過ぎ去る人の側に
いつまでも置こう
切符
言葉が思考を巡らせ
旅のための切符になるのなら
言葉を忘れたとき
僕はまた生まれた姿に戻るのだろう
手や足
見えるもの全てに
驚きと喜怒哀楽を覚えたときの
汽車に乗る前の姿に戻るのだろう
あのたたずむ木のように
景色には言葉があり
僕もまたその言葉の宿る場所になる
鍵探し
かくれんぼをやめる子供のように
景色のための鍵探しをやめるということ
それよりも 公園の砂場に
雲と水の言葉の区別を描いてみよう
いつしか雨水が葉に垂れるように
肌にその実感が降ってくる
それを誰かに伝えようとして
砂の上に言葉を落としたら
次の駅への切符が出てくるかもしれない
冷たい水
何度も何度も顔を洗う
その日をもう一度やり直すために
まるでたくさんの涙を流したかのように
何度も何度も顔を洗う
冷たい水は冷たい水のまま
何度も何度も水を飲む
その日をもう一度はじめるために
まるでたくさんの涙の中を泳ぐように
何度も何度も水を飲む
忘れないための 冷たい水
ただの紙切れ
ただの紙切れ ただの葉っぱ
風に吹かれて どこへ行くのか
それだけでは 言葉になれず
それだけでは 誰にも伝えられない
けれど
誰かが宛のない手紙を
紙飛行機へ変えるように
ただの紙切れ ただの葉っぱも
羽根を付けた言葉に 変わるときがある
そのとき はじめて 意味を持つ
静かなとき
静かなとき
窓の外は草木が がさがさと音を立てる
波音も ざーざーと尾を引く
雨が降れば
たちまちあたりは音であふれ
音楽には困らない
器から収まりきれない音が 外に漏れていくとき
わたしは音をひと掬いする
あふれる音が滝に変わっても
わたしの音はこれだけ
静かなとき
廊下
廊下を渡る瞬間
夜が通り過ぎた
目も合わせず
足音も立てずに
わたしのドレスを揺らす
ここは朝と夜の廊下
わたしが廊下を渡るとき
夜はわたしに触れる
遠くの隕石が 流れ星に見えたように
けれど
わたしは夜を知らず
夜もわたしを知らず
お互いに通り過ぎるだけの廊下
空の瓶
胸の奥から 取り出した
空の瓶を 波の上に乗せた
ゆらゆらと揺れる 空の瓶
この空ということ
あの空ということ
同じことなのに どこか違う
空には雲ができ 雨が降る
けれど
空の瓶の中には 雲も雨もできない
同じ空なのに 違うもの
瓶に閉じ込めた感情よ
空とひとつになれ
夜に連れて
夜に連れて 大きく 黒くなる雲
その中に 小さく 白くなる鳥
夜に連れて 大きく 黒くなる山
その中に 小さく 白くなる百合の花
夜に連れて 大きく 黒くなる海
その中に 小さく 白くなる月
天使の言葉
天使が羽根を燃やすとき
そこに朝はやってくる
天使の羽根は
言葉の生まれ変わりだから
卵の白い殻を剥がすように
また朝が始まる
その度に天使もまた 今日を生きていく
紡いだ言葉が いまでは真っ白に燃え尽きた
それでも
言葉が消えるものだということを
天使は知っている
探していた言葉
丘の上に立っている
言葉を求めるように
薄くて小さな白い羽根を
探しては体に張り付けていた
けれど
それを集めるだけでは飛べない
羽根は 真夏の太陽に焼かれる度に
空へ昇る
焼かれた黒い羽根が 空に舞い
あたりは夜になる
そこに生まれた 小さな光が
きっと 探していた言葉
一日の終り
始まりと終わりの真ん中で
ふと 思い出す
これでよかったのかな
というような気持ち
ただ
考える時間が目の前に転がっていて
それをまるで ビー玉でもいじるかのように
平行な机の上で 見つめていた
窓を開けて 空を望んで これでいいと思えたとき
机の上の星も 輝き始めた
海馬
海面に細かい跡を残す馬
霧のような風の中を駆ける
彫刻刀のような たてがみをなびかせ
今日の出来事を反芻する
湾の中にできる波の皺は
ひずめが削いだ記憶の跡
そこで生まれる感情たち
存在の曖昧な千の泡
忘れたくない
ひたすら馬は走り続ける
忘れたくない
あれは海馬
はなの奥
鼻の奥 それとも 花の奥
蜂の集まる蜜の香りは
散歩交じりの鼻の奥に届いている
あの大きな雲の ひとつひとつの粒子が
地上に降り注ぐとき
僕らが眺める花の奥に それらは触れるだろう
花の奥 それとも 鼻の奥
日差しも届かぬ洞窟の
震える声を残して 去っていく潮の香り
言葉の行方
遠くに見える言葉
それは夕焼けに似ている
この瞬間に 刻一刻と消えながら
それでもなお どこかで輝き続けるもの
言葉に想いを乗せるのなら 水の上
それもあの線の上がいい
ちょうど いま 落ちようとしている木の葉も
実は燃えながら土になる
空が次第に夜に染まるように
浮かんでいる言葉
今日も今日とて
言葉が生まれず ただ眺めていた
日差しの中で
浮かぶ言葉が 部屋では生まれず
木漏れ日と名付けて 森を見る
海の中で
浮かぶ言葉が 地上では生まれず
泡沫と名付けて 空を見る
いずれも姿見に似せた言葉
浮かんでいる言葉が
ただただ愛しくて 消えるまで眺めた
小さくなる言葉
こんな空の下で 呟く言葉が小さくなる
こんな海の側で 浮かぶ泡が海月になる
跳ね返るボールは 白い羽に変わり
小さな水たちが 空を目指すとき
いつでも言葉は 街を見下ろしていた
旅立つ言葉 と 別れを惜しむ街の明かり
街の呟く言葉は だんだんと
あの星のように 小さくなる
優しい言葉
痛いほど いいえ 痛いくらい
優しい言葉を探しています
痛いほど 触れかけた火に 燃えるような
痛いほど 水の中に 息が消えるような
それでもいいけれど
それでもよくなくて
痛いくらい 優しい言葉だけが
開けたままの窓に入り込んで
いつまでも 涙を流せるような 優しい言葉を
ドアノブ
――ドアノブに触る
すると やつれた記憶が 羽を広げた
――ドアノブを回す
すると やつれた記憶は 羽を羽ばたかせた
――ドアを開ける
すると やつれた記憶は 地面を蹴り
空に舞い上がった
折り畳んだ その日の記憶
積み重なる想いの羽は 青白く発光したあと
空の向こうで 虹色に輝いた
ガラスの靴
波がちりちりなガラスを運ぶ
浜にきらきらとガラスは光る
裸足でも傷つかないガラス
橋を渡るように 歩きたい
ガラスの靴を片手にぶら下げて
砂をこぼしながら 橋を渡りたい
こぼれていく 思い出
ビンにたまっていく 涙の欠片
向かうのは 夜明けの海を渡る橋
光を弾いた 夜明けのガラス
水面の波を怖がらないで
水面を歩けるガラスの靴
夜明けに溶けながら
思い出をこぼしていく
思い出を怖がらないで
透き通るガラスの彼方
ガラスの道は きっと
きらきらと 泣いている
さらさらと 光っている
植木鉢
泣き止まないキミに
わたしは子守唄を聴かせた
ねんねんころりよ おころりよ
いつかの歌声に 涙を乗せる
ねんねんころりよ おころりよ
きっと もうキミは目を開けない
今夜も ベランダに差し込む月明かりが
外にさらされた植木鉢を 照らしてくれる
澄ました風の中に キミの寝息が聴こえる
横たわるキミに
わたしは子守唄を聴かせた
ねんねんころりよ おころりよ
いつかの寝息に 記憶を乗せる
ねんねんころりよ おころりよ
きっと もうキミは目を開けない
ぼやける視界に 過ぎていく風
荒涼たる時間が キミの姿を覆い隠す
認めるものは 数えるほどの写真だけ
冷たくなるキミに
わたしは子守唄を聴かせた
ねんねんころりよ おころりよ
いつかの温もりに 手を乗せる
ねんねんころりよ おころりよ
きっと もうキミは目を開けない
布団の中に残る温もりに 思わずキミを抱いた
湯たんぽのようなキミは 次第に冷たくなる
キミの代わりに眠れない わたしの植木鉢
ねんねんころりよ おころりよ
きっと どこかでまだキミは泣いている
今夜のベランダは 少し寒い
時間の船に乗り遅れた わたしを笑ってね
埃を被った絵本の数々 キミに伝えるはずの物語も
いまは もうなくて
ベランダに置かれたままの 枯れた花
多くの水に浸されて 枯れてしまった 幼い花
もう水を求めることも
もう水をあげることさえも できなくて
生まれた命 か弱いね
守らなければ すぐに消えてしまう
キミの存在 あたかもウソのよう
キミの笑顔 もう見られなくて
ねんねんころりよ おころりよ
きっと どこかでまだキミは眠っている
愛をとめずに 涙をとめて
伝わらない言葉を この胸に抱いて
思い出に枯れる 植木鉢
明日の希望になれたのなら
キミにまた 会えるかな
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