葵夏葉
僕と彼女の空
空に昇る ひとつの煙は
彼女の 飛行機雲
あの天まで 届くように
空高く 昇っていけ
あの日の 思い出と共に
あの火の 思い出を燃やせ
僕らの明日を 示唆するように
永遠に続く
永遠に眠る
彼女の行方に
思いを巡らして
今日も 空を見上げる
波の残響
傾いていく陽の光が
海に橙色の粉を振りまくと、
辺りはいっそう夏が濃くなっていく。
夏色の溶けた風に舞った粉は
砂浜をぐるっと旋回し、
蝉の騒ぎをぴたりと止ませる。
僕は椅子に座って、
帰り支度をする人たちを見送る。
彼らは知ることがないだろう。
海はこれからまた顔を変え、
僕らを引き寄せる。
残された砂浜に、
残された僕が立っている。
誰もいない波打ち際に、
僕の影が長く伸びる。
いずれそれも山陰に隠れ、
静謐な夜が全てを覆い尽くす。
しかし音は止まない。
炭酸飲料の
蓋を開けた途端に抜け出す
炭酸ガスのような音が
永遠に砂の中に溶けこんでいく。
それは残された僕の残響かもしれない。
季節の終わりと始まり
僕は蝉の亡骸を
夏の終わりに目撃した
いつの間にか夕立が降り止み
入道雲は萎れた向日葵に汗をかかせた
素直な風鈴は鳴り続け
知らぬ間にスイカは海の潮に流される
どれも過去だから
そろそろ
僕も夏からいなくなり
僕の中の夏も終わる
今度は君の季節が始まるのだから
浮遊物
ぷかぷかと
ただひたすらに
ぷかぷかと
ただよう僕は浮遊物
広大な海に浮きながら
あてもなく潮の流れに身を任せ
西か東か怯えつつ
絵に描いたイツカの地上を目指した
いつから僕は浮遊物
痩せた水兵帽だけが彼方へ出帆する
僕の意識はぷかぷかと
秋の暮れだけが慰めで
雪と紙
雪道を踏みしめる度に
消えていく言葉を感じる
胸の中に残るのは冷たい感触だけ
僕はなにをしているのだろう
ふと
曇り空を見ながら思う
どこまでも雪は肌を刺していく
気まぐれな風に合わせ
ポケットに手を入れた
握りしめる手の中では
想いに潰れた紙が
小さく鳴いたような
形のある雪
ある日
突然
私が雪のように溶けても
雪のように忘れられたくない
だから
私は雪を描いたり
書いたりするのでしょう
形を残したいから
それなら
雪は私の中に降り続ける
あの姿を永遠に保ちながら
誰かの中に降り続ける
そうして
アナタは雪の中に
私を見つけるでしょう
氷の向こう
ガラスの向こうは
もう春でしょうか
こちらの鋭い結晶は丸く縮まり
表面に広がる白い根が
きらきらとした銀色の花をつけ始め
ほのかな青白い発光を見せました
まだ氷の檻に閉じ込められている私は
よく耳を澄まして
春を伝える見えないウグイスの鳴き声を
今日も聴いています
花瓶の花
嬉しい涙が空に昇るとき
悲しい涙は底に溜まる
そのうち君を絶望させるほどの大雨が
田畑を氾濫させるだろう
そんなときは
この花瓶を使ってくれ
止めどない悲しみに溺れそうになる夜には
これに涙を流すといい
そこには感情の芽が埋めてある
いつか素敵な花を咲かせるはずだ
作曲
長い病の床では時計も意味を持たない
冬の冴えた朝に
机上の楽譜が光る
これが唯一の知らせ
これまでの習慣に従い
君は注射針を僕の腕に刺し
吸い上げた血を窓枠の生花に差し入れて
ふっと息を吹きかける
それを押し花にしたい
日に日に強くなる花の免疫力は
僕の希望だから
僕はこんな想像をした
彼女が吹いた花びらは
風に乗って
窓から勢いよく抜け出し
あっという間に海岸へ飛んでいく
ぽつんと水面に浮きながら
ゆらりゆらりと波に揺られ
浜に流れ着いた頃には
波を抱く桜色の貝殻となる
彼は儚き夢の冒険者の名誉を得る
漁を終えた船員たちが横たわる彼を見つけ
僕の作曲した音楽に耳を傾ける
それはきっと
どこまでも鳴り響く曲になるだろう
すれ違う季節
枯れていく速度で
君の芽に触れる
その温かさが春を恋しくさせた
君の季節に生きていたい
それでも
僕が枯れる頃
君は咲くのだろうか
その刹那を永遠に見届けたい
最後に
悪夢を知らないその頬に
涙をひとつ
流せたら
始まりと終わりの真ん中で
僕の夢を君に渡せるかな
窓の外に映る世界
涙の目薬を水たまりに溶かして
空を見つめよう
閉めきった部屋のカーテンを
いま
開くときだ
視界に映る有象無象の中に
きらりと光る冬が瞬く
それは君の見逃した夢
現実の窓は夢への門出だから
温かい春の風は
君の悩みを切り替えて
翼を生やすだろう
だから
目を開けて
早朝の公園
ビルの影に隠れたる雪の跡
それは通り過ぎる冬の轍
太陽が昇りつつあるその公園の真ん中には
数十羽ほどのウソの群れが集まる
早朝の公園は彼らの遊歩道
口笛を吹いて春を呼ぶ
膨らみかけた桜の蕾が大好物なのだ
彼らが一斉に空へ飛び立つと
萌え始める桜の若芽に雨が降った
殉教者
彼女は筆を置き、
ふと、
軒先に視線を移す。
春の陽光は音もなく、
その身に熱を帯びながら、
小鳥のさえずりを飾る、
あの桜の木に掛かる。
それは命絵。
情景を望む彼女の心は幼き夢を顧みて、
巡る季節に想いを馳せた。
気まぐれな風に誘われて、
着物の裾には春の殉教者が舞い散る。
戯言
緑を枯らした海の底よ
世界の始まりは誰のもの
ひらける庇の遠く向こうから
見えた大地は叫びに消える
飛ばずに死ぬ鳥の抜け殻が
いまだ海の胸を締めつける
いまや崩れた廃家の宿主は
死にゆく道を避けては通れない
屏風の影に白い衣の刃が光る
歴史は水車のごとく
事実は烈火のごとく
抵抗を知らぬ弱者の命は
寂れた荒野の砂に散る
さあ 散らせ さあ 唄え
彼らの春は 朧な暈を被るだけ
別れの海
僕は 誰もいない浜辺に ひとり立っている
海風が 僕のひび割れたグラスを 小さな笛に変えた
いつか君が また夏を迎えるための約束にと
深い足跡を残したことを いまでも覚えている
いつまでも 消えない君の記憶と共に
過去から未来に揺れる波は 記憶だけを置き去りにして
君の健康的な精神を あの遠い水平線の向こう側に 連れていった
この狭い世界の どこに 君はいるのだろう
波に触れる君の足元に 悲しみをひとつ 残せたのなら
僕は 空から落ちてくる圧倒的な白さに 決して溺れることなく
背を向ける君の姿を 見続けることができた
消えることのない君の足跡が いまでも こうして 波に揺れる
絵葉書のように 君から届く無言の手紙は さざなみに溶ける
僕は 誰もいない浜辺に ひとり立っている
君に伝えられなかった 無数の手紙を こうして 泡沫に乗せる
太陽の昇る季節に また君に会えたのなら 手紙を燃やそう
いつまでも 波の知らせを待っている
水平線にぼやける君の姿が 底の深い轍を残しながら 僕に告げる
また 来年 一緒に 来られたら いいね
白い涙に引かれて
さらさらとお別れの風が 君の足跡を隠していった