葵夏葉
昔のことを思い出そうとすると、決まって嫌な気持ちになる。
中学校二年生のときに学校を退学した。それからは、なんとかアルバイトを掛け持ちしたり、変えたりして毎日を生きていた。
相手の真意を探ることばかりに頭を使うようになっていた。
人は思ったことをそのまま口にしないように、日頃から気を付けているものだ。そうやって人との関係一つひとつに謙虚さと思慮深さを備えて、関係の崩壊を防いでいる。自分が社会で生き残れるように身に付ける技術のひとつだからだ。
彼らの発言の全てに裏がある。それは信じていいことに違いない。なぜなら表と裏がこの世に原理としてあるのなら、言葉にもそれは当てはまるからだ。信じれば裏切られる。当たり前のことだ。
そんなとき、俺は同じような類の少年たちと街で出会い、共に行動した。
年齢は七歳から一八歳までと幅広く、彼らのほとんどは孤児だった。というのも、事実、そうだと言える子供もいたが、大部分は彼らの親が夜の街で働いているということが多い。面倒を見る余裕がなくなった親が捨てた子もいる。赤ん坊はときに瓦礫に埋まり、ときにゴミ箱の中で死ぬことを恐れているかのように泣き、食べ物を望み、愛情を求めていた。
仲間の中で年長者と呼べる人間がそのような子供を引き取って育てる。よくそのようなことが行われた。
自然と行われる生活の一部のように、俺たちは他人からすれば汚れた服を着て慣習的に街のゴミを漁る。殊によるとホームレスだとも言えるが、周りの大人たちは少年たちに同情心と嘲りを含めて「野良」と随分前から呼んでいたらしい。施設の職員がたびたびやってきてはひとりずつ連れていくこともあった。少年たちはそれを恐れた。見知らぬ世界に強いられるのが怖かったのだ。社会的な縛りはあっても見慣れたこの街の景色が、どこか少年たちは好きだった。
「いつか、ここを抜け出すことができるのかな」
中には不安にそう思う少年も多い。
「いいや、抜け出す必要はねぇさ。あるがままを受け入れろよ」
と、多くの野良を見てきた年長者は言った。
彼らには夢があった。ときに街を見渡し、ときに街を壊しては創り変える。もちろん、それは小さく身近な範囲に限られるが、少年たちにとってはそれが世界だった。自分の知る限りの世界。それを守ることに必死だった。だから、他人にどう言われようが彼らの意志は硬く、罪悪の苦しみさえ感じることはなかった。ただ生きることが未来を生き抜く力を与えてくれると、彼らは信じてやまなかった。そんな淡い夢を追い続け、彼らは毎日の煩悶を薄く染めていく。
「なぁ、世の中って不公平だよな。医者や弁護士はさ、お金いっぱいもらって週末に夜の街を堪能する。ヤツらが楽しんでいるときに俺たちは生きることに必死で、ヤツらの財布から出たゴミを一生懸命かき集めて生きているんだ。これは絶対に不公平だよ」
いつも不満をこぼすのは決まって小山だ。年長者に聴いた話だが、彼は高校に入学してから間もなくすると退学した。それと言うのも、両親が借金の取り立てに頭を悩ませており、ついにいつとも知れず山の奥で自殺したらしいのだ。他に身寄りのいなかった小山は空き家になった家を出て、街を徘徊するようになったという。寝るのは廃家の屋根の下か土管の中くらいなものだったらしく、彼はそんな日々の中、生きるために必要な金をあくせくと集めるようになった。それで金に対する彼の執着は個性とも言えるほどに色濃かったのだ。
実際、他の少年たちは不満を感じることはあっても、それを言葉に載せることができるほど、巧みに相手へ伝える応用的な言語能力が乏しかった。というのも、学校に通えなかった子も多かったからだろう。学校に通えるだけでも彼らにとっては幸福の一部だった。
「人間はみなどこかで苦労していると思うよ。医者や弁護士だって休みを取らなければ遊べない。それまでに客との細々としたやり取りを積み重ねているのだと思う」と、宮沢が言った。
彼は仲間の中では落ち着きのある性格で知識や学力のある人間だった。年齢は一五歳ほどだと言っていたが、それよりも大人っぽく俺には見えていた。――ただ、誰も彼がいまどこでどうやって暮らしているのかを知らない。というのも、少年たちは日頃からお互いの過去や現状を追求しないように心掛けている節があるからだ。もちろん、それが相手を傷つける話になることは目に見えていたし、自分にもその火の粉が降りかかってくることを恐れたのだった。
「いや、不公平だね」と譲らない小山。論はなくとも意志は硬い。
「百歩譲って不公平だとしよう。でも、不公平の名の元に僕らの生活が成り立っているのなら、もし立場が逆転したとしても、同じことを言うかもしれない」と宮沢は平然と言ってのけた。
「そんなわけがないだろ」と小山は苦笑いしながら反論した。
「僕が言いたいのは、けっきょく、世の中はないものねだりってことさ。言っている意味が、君にわかるかい」
宮沢の語調が強くなっていった。発言している言葉は整っているが、表情はだいぶ紅潮している。
小山は呆れて宮沢から去っていく。さも「これ以上話していても埒が明かない」とでもいうような態度だ。しかし、その場にいた誰もが宮沢の発言を怖々と聴いていたに違いない。それほど彼の発言は空気の中で静かに流れ、冷たく少年たちの肌を刺していた。
こんな調子の宮沢であったから、彼とつるむ人間はあまりいなかった。――頼りにはなる。頼りにはなるが、意見が食い違うと痛い目に遭う。それを彼らはじかに肌に触れて知っていたのだ。
「なぁ、宮沢。どうして俺と一緒にいてくれるんだ」
俺はとなりで座りながら煙草を吸っている宮沢に訊いた。
「一緒にいて欲しくないのか」と煙草を口から離して宮沢が言った。
「いや、そういうわけではないんだけど」と俺は口ごもる。
「東城は他のヤツらと比べて物分かりがいい。道理もよく理解している。なにが不満だと言うんだ」と事もなげに宮沢は言い、軽い笑みを浮かべた。
それが俺には嬉しかった。ただ、彼の言うことだから間違いはないだろうとは思ったが、予想以上に自分の能力を褒められたことで自分に対する疑念や反論が生まれてしまい、それがいつしか羞恥と混ざり合い、謙遜の色を作ってしまった。見ていた宮沢にはもちろん、これがわかったのだろう。俺が「いや――」と言いかけてから「そう謙虚になるな」と肩を軽く叩いたのだった。
少なからず俺はそんな宮沢の放つ素質とも呼べる雰囲気に憧れていたし、彼の頭脳明晰な秀才肌に嫉妬していた。いままで敬う人間などいなかった自分の人生の中では、最も模範すべき姿のように思えた。――だからこそ、そんな彼に自分の能力や考え方を肯定されると俺はなにも言えなくなるのだった。
宮沢は吸っていた煙草を水溜りの中に投げ入れた。その煙草は道路に捨ててあったものに火を点けたものだったが、ここが宮沢らしく「病気がうつるかもしれないから、お前は吸うなよ」と言い、俺が「宮沢はいいのかよ」と疑問を投げかけると「俺はこうして薄い布を煙草に巻き付けてあるから大丈夫なのさ。これはそこらの店では簡単に売っていない品物でね。捨ててある煙草を吸うには便利なんだ」と一種の迷信的な信頼を疑わしいものに抱く癖もあった。
ただ、それでも、他の仲間よりも彼と多くの時間を費やしたことは事実であったし、性格の相違がお互いの穴を埋めていたとも言える。
友情とはこのような間柄を言うのかと、この時期に抱いていた。
忙しないアルバイトを終えるなり仲間の所へと行き、宮沢を探しては些細な話題に耽った。
彼は退屈しているようには見えなかったし、そしてなにより興味深い話を聴くかのように、いちいち頷いていた。
同じような生活が日常的に繰り返されていくうちに、いつの間にか俺はこの習慣と仲間との関係性に安心感と拠り所を見出していた。
生きることを弱者の視点から正当化し、社会的な地位が高い人間を無条件に蔑み、少しも騒がずのうのうと生きている人間たちが憎かった。それは仲間たちの集団的理念の基本であったから、自分もそれに従ったのだろう。違和感はなかった。
しかし、そのうち仲間の中で内部分裂が起きてしまった。この中に政治家の息子がいるという情報が流れたからだ。
「お前だろ」と小山が宮沢に言い立てる。
「違うよ」と宮沢は身の証を立てようとしたが、他に言葉が出ないらしい。他の仲間もだいぶいつもの調子の彼とは違うと見えて、疑念を増していった。
言うまでもなく、仲間たちは政治家の息子であるというだけで悪と見なし、排除しようと考えていた。
「宮沢、君じゃないよな」と俺は確認するように言った。
「ああ、違うに決まっているさ、東城」
宮沢の声は少し震えていたが、その言葉を信じて俺は彼を庇うことにした。
すると、自然と他の仲間は離れていき、知らず識らずのうちに仲間から外されていた。彼らは子供がよく使う人を罵倒する言葉をいくつも宮沢に浴びせた。それでも彼は毅然としていた。
だからこそ、俺はそれを見て本当に信じた。この青年は政治家の息子ではない、と。
ただ、それよりも問題だったのは仲間がいつの間にか宮沢だけになってしまったことだった。他に喜びや感動を共有する人もいなかったために、俺は彼に友情を大きく傾けた。
しかしそれでも、垢抜けない自分の心は、以前の仲間たちが離れてしまったことに悲しみを覚え、少なからず落ち込んでいた。
その日の晩、路地裏にある二三段の大谷石の石段に俺は腰を下ろして座っていた。
もちろん、そのときはアルバイトもしていたしアパートも借りたままだったが、嫌なことや悲しいことがあったときには決まって仲間たちが好んで集まる場所にいることが多かった。
ただし、もうここには彼らは集まらないだろう。俺ら二人に黙ったまま新しい集会所をどこかで開くのだ。
それでも、知ろうとはしなかった。一度仲間から外れたものは敵対視されるということを以前から体験して知っていたのだ。
だから、行かなかった。
冷たい雨がぽつりぽつりと空から降り始めた。
俺らが望んでいた空の青さは街のネオンにさえ染まらないほど清らかな、それでいて安心できる空気をあたりに発散しているものだった。
しかし、それは幻想だったのだろうか。
街の妖美な燭光はぶ厚い雲に吸い込まれて灰色に染まり、それが俺たちを覆っている。どこへも逃げることができないように、見渡す限り重くのしかかって……。
そんな頃合いに宮沢がやってきて、俺のとなりに座った。
「宮沢は政治家の息子じゃないんだろ」
他に仲間がいない虚しさを言葉に載せようと、俺はうつむきながら彼に言った。
「心配するな、真に受けるなよ」
肩を軽く叩く宮沢に対して俺は「ああ、そうだな」と答えた。
――しかし、それから三日も経たぬうちに宮沢の行方がわからなくなった。
忽然と姿を消したのだ。
それに俺は少なからず動揺した。聞く宛もなく街の道という道を走り回り、建物という建物に忍び込んで探した。が、それでも彼は見つからなかった。
俺はまた孤立した。
以前の仲間たちに会って話す言い訳も思いつかなかったし、これでもまだ宮沢が戻ってくると信じていた。
また前みたいにとなりに座ってくれるのを俺は待っていた。
皿洗い、接客、清掃と雑巾のように働き続けて一ヶ月が過ぎた頃、偶然、宮沢に会った。
それは駅の界隈で営業している握り寿司から男と出て来るところだった。
「宮沢」
俺は叫んだ。二人は店の前に停めた車に乗ろうとしていた。
車は黒光りしたプレジデントだった。
声が聴こえたのか男と宮沢がこちらに振り返った。二人とも無表情だった。男はスーツを着てサングラスをかけている。全身から威厳のある雰囲気を醸し出していた。
となりにいたその男が宮沢に「知り合いか」としゃべる。青年は首を振り「こんな汚らしいヤツなんか知らない」と言った。
それを聴いた男は安心したようにニヤリとすると車へと乗った。
「知らないわけがないだろう、宮沢」と俺は彼に傷つけられ、そうして行き場のなくなった悲しさを槍のように飛ばした。
宮沢は乗る瞬間「ごめん」と俺に言ったような気がした。
頭の中で彼の言葉がこだました。
「『ごめん』だって?」
タバコのような黒い煙を吐きながら走り去る車に、俺は思わずぶつけるように「ふざけるな」と叫んだ。
道端に落ちていた石を拾い上げて投げようともした。
けれど、やめた。そんなことをしても意味がない。彼は行ってしまった。
彼が俺のことを「知らない」と言ったのは彼にとって俺が都合の悪い人物だったからだろう。どうしてそんなことを言うのか、彼の無情な表情を見たときに薄っすらとだがわかっていた。
それでも真実を知りたかった俺は彼に叫び、事実は俺を嘲笑うかのように去っていった。仲間だけではなく、俺にもウソをついていたのだ、彼は。
心から人の発言をそのまま鵜呑みにしないと、あれほど後悔していたのに、どうしてまた期待など持ってしまったのかと、悔しかった。自分の決めたルールに従わなかった自分が悔しかった。
それからは、またひとりになった。
「人はどうして生まれてくるのだろう」
そのような疑問さえ持ったことがある。生まれて来なければ悩むこともなく、怒りや憎しみさえ感じることがなかった。なぜ自分は生まれてきたのだろう。
以前、「迷い人よ、来たれ」というキャッチフレーズを大々的に報じていたゴールデンタイムの番組があった。それは悩み事を抱える視聴者の応募の中から毎回三人ほど選ばれて、名前の売れている女の占い師に相談し、解決してもらうという企画だった。
偶然、缶ビールを飲みながらテレビを見ていた俺は、自分と同じような疑問を持つ人が現れて興味を抱いた。
知りたかった。全身の神経が画面の中の出来事に集中し、目を離せなかった。そのとき聴いた彼女の発言をいまも忘れない。
「アナタがこの世に生まれてきたのは運命なのです。意味があるのです。アナタはなにか成すべきことがあって、この世に生まれてきました。アナタはそれを知る必要があります。探しなさい、アナタの身近にそれはあるのですから」
持っていた缶ビールを片手で思いっ切り潰した。明確な答えをこの女が持ち合わせていないと感じたその刹那から、自分の中で燃えるような憤りが生まれた。そうして今度は感動して泣く視聴者を見たとき、俺は持っていた缶をテレビに向かって投げた。
テレビを消すその瞬間、泣いている女の瞳から黄ばんだ涙が流れていた。
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