葵夏葉
空を望む少年
見上げてみたら、まっさらな青が見える。
あの青に触れたい。
家の屋根に登ろうとしたら、お母さんに怒られた。
青の尻尾をつかもうと思ったのにな。
がっかり。
でも、僕はまだ諦めないぞ。
裏山に登ってみよう。
今度は触れるかな。
いつまでも届かない青空に少年は手を伸ばし続けていた。
どうしてだろう。
届かないや。
空はこんなにも近くにあるのに。
いつしか青の空は柔らかい夕焼け色に光り出した。
少年は丘の上に立つ。
あの夕日に触りたいな。
そのあと、みるみるうちに夕焼けは少年を染める。
わぁ、僕の体が輝いているぞ。
すごいなぁ。
開いた手のひらは夕焼け色。
風に舞い上がった砂埃が少年の目に入る
あれ、もう夜になったの。
彼が目をこすっている間に街の明かりは灯り出していた。
誰かがカーテンを閉めたのかな。
やがて、ぽつぽつと雨が降るように星が瞬き始め、星座の物語が聴こえてくる。
あ、夕ご飯の匂い。
少年は駆けた。
ビニール袋
それは強風の吹き荒れる夜だった。
誰かが捨てたビニール袋が電信柱の電線に絡んでしまったのだ。
「た、助けてくれ――」
彼はかさかさと音を立てる。
しかし、周りは騒音だらけだ。
誰も気付かない。
四方に力の入れ具合を変えながら引っ張ってみる。
だが、体は電線から離れてはくれない。
そうこうしているうちに、あたりの風はより強さを増していく。
唯一の救いは雨や雪が降っていないことだった。
「どうしたら――」
容赦なく吹いてくる横風により、何度も電線に体をぶつけてしまう。
このままでは、いつか体が切れてしまうだろう。
彼は思った。
「大変だ……もうこれしか」
ビニール袋は夜空を見上げた。
星の見えない暗い空は、重くのしかかってくるようだ。
それでも、彼は「お願いします、お星様、私と電線を引き離してください」と叫んだ。
すると、どうだろう、あたりの風はぴたりと止んだ。
「風が……」
彼は思わず呟き、ふと、考える。
「もしかすると!」
街から遠く離れた山の方に、なにやら風のこだまが響いている。
巨大な飛行機がうなっているようだ。
なにかがこちらに向かって吹いてくるのだろう。
その予感はビニール袋にもわかった。
すかさず身構える。
建物の窓ガラスが揺れ始めた。
そうして目の前にやってくる。
「巨大な波風だ」
巨大な風の波が街に吹き荒れる。
いままでの風とは桁違いだ。
道路の脇に散らばるゴミが空に吸い込まれる。
「これに……乗れば……」
声を出すのも苦しい。
しかし、タイミングを少し間違えると、建物に体を叩きつけられる。
ビニール袋は決意した。
風を読む。
そして脱出する。
「いまだ」
横に体を全力で振る。
すると、全身が浮き上がるのを感じた。
「やった」
そう思った直後、次第に強風に体を持っていかれる。
「まずい」
渦のような激流に呑み込まれそうになる。
必死に体を動かした。
そんな混濁する意識の中、薄っすらと光を見つけた。
そこに意識を集中させる。
「行け!」
「……ここは」
気付くと、
ビニール袋の視界の向こうには街の灯りが映っていた。
「飛べたのか」
彼はあたりを見渡す。
そこは雲の上だった。
頭上に星が見える。
「ありがとう」
昇り始めた太陽の、朝焼け色の東の空に向かって、彼は小さく飛んでいく。
彼の旅は始まったばかりだった。
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俺は悩んだ。
しかし、本当の意味を知らずにいるのは損だと思い、申し込むことにした。
それから、数日後、頼んでいたものが自宅に届いた。
ダンボール箱の中に入っていたのは、ひとつの機械だけ。
計算機のようにも見える。
大丈夫なのか。
機械の電源ボタンを押すと「ピッピッピッ」という音のあとに「音声を入力してください」と流れた。
俺は言われた通りに設定を行い、なんとか使えるほどまでになった。
そうして何度か試していると、驚いた。
バレンタインから恵方巻き、「いただきます」から知らなかった童謡までわかる。
思わず俺は「こいつは便利だな」と呟いてしまった。
これならば、ある程度は使えるかもしれない。
しかし、真の目的はこれからだ。
「中学校のとき、好きな子にふられた理由」
声が少しだけ震えた。
内容はどうしようもないことだが、俺には重要だった。
なにせ、それで何年も悩むのだから。
俺の解釈では「本当の意味」は「本当の理由」にもなるはずだ。
「……」
しかし、機械の反応が鈍い。
これまでは即答だったので、今回は思いのほか長い。
「仕方ないか……」
人の記憶を覗くのだから、時間もかかるだろう。
そう思っていた。
「わかりません」
機械はきっぱりと言い切った。
「なんだ、不良品かよ」
俺はすぐに会社に電話をかけた。
クーリングオフが使えるからだ。
自分勝手なのも十分承知しているが、恥ずかしさを消すように即座に喋った。
相手方も納得したらしい。
次の日、業者がやってくるなり、箱に入れて早々と運んでいく。
俺はそれをうしろから見送った。
期待など、最初からなかったと自分に言い聞かせながら、床へ横になった。
天井は低い。
改めてひとりになって思うことがあるとすれば、理由なんて知らない方がいいということだ。
あれが不良品なのかは別としても、意味は自分の心の中にしかない。
いままで想い続けてきた。
それが意味だ。
それを気付かせてくれたという意味では、本当の意味だったのかもしれない。
もしあの機械を使わなければ、この先もずっと悩み続けていただろう。
理由がわからなかったのは当然だ。
機械は本当の意味を果たしたのだから。
いまも誰かのうちで「ピッピッピッ」と鳴っているのだろうか。
創作会議
「俺はこうした方がいいと思うぞ」
「いいえ、わたしはまだこの子が出てくるのは早いと思うの」
「いや、わしならこの子は出さんな」
「ええ、ウソでしょ。それはないわ。――ねぇ、作者てきにはどうなの。この子は出ない方がいい?」
繰り広げられる夢の創作会議に、今日も僕は寝ている。
自分が寝ているときに頭の中では創作会議が行われている。
昼間に書けなかった、もしくは思いつかなかった物語の展開を紙に書いて、枕の下に入れておくのだ。
これで続きを議論してくれる。
これで安心だ。
起きてから枕の下に手を入れる。
紙面にはただ「考え直せ」とだけ書かれていた。
自分が寝ているときに頭の中では創作会議が行われている、などという物語を考えたが、その続きがどうも浮かばない。
なので、決まったところだけを紙に書いて枕の下に入れておいたのだが、次の日の朝には「考え直せ」とだけ書かれていた。
これには驚いた。
そんな続きがあったとは。
小説家の背中
「書けないのなら仕方がない」
それを聴いたわたしは「仕方がない、仕方がない」と頷いていた。
「読まないのか? 書けないのだろう」
父は古そうな本をわたしに差し出した。
「え、いや、それは……」
「なんだ、書けるのなら、早く言え……まさか、どちらもできないのか」
「ぅぅ……」
「初めてなのだから仕方がない。もう少し待とう」
そう父は言うなり、居間に戻った。
わたしは書斎にひとり残される。
小説家の父に「わたし、物語を書きたい」と言ったのが事の始まりだった。
書きたいことは書きたい。
でも、書きたい分野は山ほどあるし、それに書ける自信がなかった。
机の上には真っ白な原稿用紙。
その上をペンが転がる。
わたしは迷った挙句に何万冊もある本の山から、一冊を取り出した。
それは父の小説。
表紙は堅そうな印象で、ページを開くと、文字がいっぱい並んでいる。
わたしは本を閉じた。
そう言えば、父の小説を一冊も読んだことがなかった。
父も父だ。
わたしが「物語を書きたい」と言わなければ、わたしに「小説を読め」とは言わなかった。
それほど、わたしと物語はいつもどこかで離れていた。
けれど、今回は初めて父が「小説」を口にした。
嬉しくもあるし、寂しくもある。
でも、どうして自分の小説を勧めなかったのだろう。
わたしは理由を考えていた。
けれど、どうしてもわからなかった。
だから、その答えを探すために、改めて父の小説を開いた。
最初は世界に入り込むのが大変だったけれど、読んでいくうちに夢中になった。
「お父さん、こんなこと考えているのかな、すごい……」
思わずわたしは驚いた。
物語を読み終える。
短編だったので、時間はかからなかった。
そのあとに、書斎の扉が開いた。
「書けたか? いや、読めたのか、その顔は」
「うん。お父さんの小説ってすごいね」
「褒めてもなにも出ないからな」
「どうしたら、あんなに書けるようになるの?」
父はすぐには答えなかった。
父は黙ったまま書斎の窓際に立つ。
もう日が暮れてしまった外の景色を眺めながら「お前と一緒だ」と呟いた。
「え、」
「物語を書きたい。その気持ちが強かったから、ここまで続けられた。それだけだ」
「じゃあ、どうしてわたしに自分の小説を勧めなかったの?」
父はゆっくりと振り返る。
「読書は義務ではない。読みたいから読む。
それを誰かが無理やり読ませるのは変な話だからな。
それに、これから物語を書くのなら、名作からの方が入りやすいだろう。
だが、お前は――」
「お父さんの小説、面白かったよ」
「なら、いい」
背を向ける父をわたしは追いかけた。どこまでも。
画用紙
ねこがいた。
翼を生やしたねこだ。
にゃーにゃーと鳴きながら、街のあちこちを自由に飛んでいる。
そのねこを見た人はみな「ねこが飛んでいるぞ!」と驚くけれど、僕はそれを見ながらくすくすと笑う。
だって、あのねこは作り物だから。
僕の描いたねこはみな自由に空を飛ぶことができた。
「すごい、ねこが飛んでいるわ」
それを聴いた僕は誇らしかった。
でも
「あのねこを捕まえろ」
もう誰が言ったのか覚えていないけど、怖い声だった。
それからは、もうなんだかわからなかった。
走る人々の狂乱めいた声だけが街の中を響きわたっていた。
こんなはずじゃなかったのに。
「にゃ――」
「大丈夫だよ」
近くの廃ビルに逃げ込んだ僕らは、ひたすら声を掛け合っていた。
ここもいずれは見つかる。
でも、今度はどこに逃げればいいのだろう。
あてはなかった。
僕は大事に持っていたキャンバスを握りしめる。
「おい、いたぞ!」その声と共に僕らは走り出した。
どこを向いても人が人でないように見える。
怖かった。
僕らは怯えていた。
ねこも自由に飛べなくなったし、僕には翼が飾りに見えてきた。
「本当に飛べるんだよね」
「にゃ――」
不安のせいか、僕は変なことを訊いた。
迷い込んだ路地裏の壁に背をもたれながら、僕らは夜を過ごした。
深夜に雨が降った。
冷たい雨。
それでも朝にはやんだ。
まだねこは眠っていた。
けれど――違和感があった。
見慣れた感じの、ふさふさの毛並み。
あ。
翼は消えていた。
それはただのねこだった。
「にゃ……」
ねこは目覚めた。
「翼は?」
僕が訊いても、ねこも首を振るばかりだった。
このねこが初めてではなかった。
初めてねこが飛んだのは、僕が幼稚園の頃だった。
みんなと同じように描いたねこが飛んだ。
キャンバスの絵から出ていくように……でも、そのときは誰かが僕の絵を破ったのだろう。
突然、ねこは消えてしまった。
帰る場所がなくなったからかもしれない。
「あ!」
握っていたキャンバスが濡れていた。
夜中の雨で濡れたのだ。
ちょうどねこの翼のところが黒くにじんでいた。
「だから……」
僕はねこを見る。
路地裏の影に溶けていくように、ねこは横になっていた。
新しいページに翼を――と思ったときには、もういなかった。
それが彼らの寿命。
翼を生やしたねこの寿命は思ったよりも早く過ぎた。
それは僕がいつも思うこと。
いつまでも消えないと思っているとすぐに消えてしまう。
絵の中のねこは、居場所をなくしてしまうと、死んでしまうから。
それは昔から知っていた。
だから、翼を生やしたねこも、翼を失って死んでしまった。
僕の絵がねこの死を迎える度に、僕は泣いた。
当然、今回も――
「ねぇ、お兄ちゃんでしょ。あのねこを描いたの」
「え、」
俯いていた僕は顔を上げた。
それは男の子。
「そうでしょ」
彼は持っていた紙を僕に見せた。
それは翼を生やしたねこだった。
僕はねこのように高い声で泣いていた。
画用紙2
少年はある商人から『描いたものならなんでも具現化できる画用紙』をもらった。
お金は要らないという。
彼が紙に蝶を描けば、蝶が画用紙から生きてひらひらと現れる。
他にも、ねこを描けば、ねこが画用紙から飛び出してくる。
彼も蝶やねこに触れられた。
そんな夢のような画用紙だった。
ただひとつ難点があるとすれば、具現化できるのは画用紙の大きさまでのようで、象を描いてもそのままの大きさの象しか出てこない。
だから、小さな象しか描けなかった。
「もっと大きいのはありませんか」と商人に訊いても「ごめんね、これしか私は持っていないんだ」と言うだけだった。
少年の画用紙が友だちに広まるまで、そう時間はかからなかった。
「貸せよ」
「嫌だよ」
「いいから貸せって!」
強引に彼の画用紙を奪い取り、自由に描き始める男の子。
ゴリラやライオン、それに恐竜まで描いてしまった。
周りは大騒ぎである。
「大変だ」
街中に動物たちがあふれていく。
最初は小さかった絵の動物たちも、他の動物たちを食べて大きくなってしまった。
だからこそ、大騒ぎである。
少年の描いたねこも小さな象も、潰されてしまった。
それを見た彼は決心する。
「消そう」
男の子が放り投げた画用紙が通りに落ちていた。
少年はそれを手にする。
「さようなら」
少年は一枚残らず画用紙を破った。
すると、いままで街にあふれていた動物たちが次第に消えていく。
ゴリラもライオンも、もういない。
少年の描いたねこも象もいなくなる。
彼は泣いていた。
それを見た商人が「ありがとう」とお辞儀をする。
「どうして?」
「わたしには止められなかった」
「――実は、私には主人がいました。その人が描いてくれたのです」
商人はそのように告げた。
少年はすぐに理解できなかった。
「私も絵から生まれた身なのです。君が全ての画用紙を破ってくれたおかげで、私も消えることができます」
「え、」
「私は主人の描いてくれた自分が好きでした」
「この街で起きたことは、他人ごとではないのです。
私の生まれた場所でも、同じようなことが起きて、主人は亡くなりました。
そのことを私はずっと悔やんでいたのですが、主人の描いてくれた自分を消すことができなかったのです」
「それを僕が消したんですか」
商人は優しく頷いた。
「さようなら。
そして……ありがとう」
消える間際になっても彼の笑顔は崩れなかった。
反対に少年はまた泣いた。
彼は再び会うことのない商人に想いを巡らせた。
すると、視界の隅に蝶が舞っている。
それは本物の蝶だった。
少年はそれを見て、笑った商人の絵をただの紙に描いたのだった。
ある音楽の歴史
太古の昔、この世の原材料はみな音楽だった。
道具も然り。
人々にとってドレミは単なる娯楽ではなかった。
作曲者たちにより、音楽は生活の一部となり、ついに科学に発展したが、そこに不満を持ち始める人々もいた。
ある日、演奏家たちが反乱を起こしたのだ。
音楽に支配されている、と。
両者の対立は酸鼻を極め、一部の演奏家たちは生きている作曲者たちを虐殺し、現存する楽譜さえも燃やした。
人々から音楽が消えた瞬間だった。
時代は過ぎ、あの事件が「革命」とさえ言われなくなった現代に、どうにか人々は音楽の代わりになるものを発明し、それを頼りに生きていた。
だが、それは以前の音楽ではなかった。
変わり果てた音楽を、子供たちはみな知らない。
学校で習った音楽を口ずさむ子供たち。
その無邪気な歌声が灰色の街に響いた。
大人たちはそれを聴き、みな涙する。
「この音楽だけは守ろう」
残る音楽はなかったが、伝える音楽が生まれた瞬間だった。
人形になりゆく少年たち
疲れ果てた少年の横顔が道端に転がっていた。
虚ろな目が無感情という印象を与える。
だが、誰も転がるそれに目を向けない。
「またか」
夏でも黒いコートを着た風変わりな男は、手帳に少年のことを記した。
最近は大人にならずに人形になる子供が増えているという。
男はその調査官だった。
人形になるという選択肢が、決してそのまま死を表すわけではない。
しかし、それを死と表現する人々がいたことも確かだ。
だからこそ、そこにいないように見えるのだろう。
調査官である男は、そう解釈していた。
「君は――」
男は路地裏で倒れている少年に声をかけた。
なりかけのようだ。
見ると、少年の顔が化粧を塗ったかのように白くなっている。
皺も消えていた。
これは典型的な人形化の症状であり、すでに末期だった。
「ぼくは……」
「しゃべるな。
いま薬を飲ませてやる」
「……ありがとう。
……でも、ぼくは人形でも幸せだよ」
少年は薬を飲むことなく、人形となった。
当初、少年が人形になるというのは信じられていなかった。
ただ感情を失っただけ、ただ動かなくなっただけ、そう考える人がいたからだ。
確かに少年たちには自覚症状があり、人形を拒んでいなかった。
だが、多くの少年たちが人形になることを望むと、それは社会問題化し、病気となった。
そうして治療のために薬が作られた。
特効薬ではなかったが、症状を抑える効果があった。
患者は主に少年と呼ばれる子たちであり、幼い頃に予防接種も行われた。
人形化した少年の血液を採取したのである。
だが、人形化の最大の問題点は、少年たち自身が人形になることを望むことだった。
なんでも選べるようになった時代に、少年たちは人形になることを望んだ。
それが彼らにとっての幸福だった。
調査官は鏡を見る。
長髪で隠された部分が白く変色していた。
彼もまた患者だった。
医者の助言や治療は効かなかった。
ただひとつ効いたのは、両親の涙ながらの訴えだけだった。
了
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